4 業務連絡キス
「この世界には魔素がない。だが、君には前世の令嬢としての魂の残滓がある。その残滓は、肉体的な接触――特に唇からの魔力伝達によって、私の魔力炉を再起動させることができる」
エリオットは至って真顔だった。
「つまり君のキスが、この世界における私の唯一の命綱だ」
「いや、ちょっと待って」
「毎朝一回で構わない。唇と唇の接触を三秒以上維持すれば、一日分の魔力は確保できる」
「いやいやいや」
「拒否するならそれでいい。私はここで消える。それだけだ」
最後の一言は、まるで諦めの境地のように穏やかだった。
消えてもいい、と本気で思っている目だった。
――卑怯だ。そんな目をするのは。
「……あんたが消えたら、うちの床にエリオット型のシミができるの?」
「いいや。魔力が拡散して消えるだけだ。シミにはならない」
「それ幽霊の消え方じゃん……」
私は深く、深く、息を吐いた。
脳内で緊急の損得計算が走る。
――いいか? 冷静になれ、私。
この男は前世で私を殺した。それは事実だ。
だがこの男には、いまや魔力がほぼ残っていない。昨夜ルンバに負けて気絶するレベルの無力さだ。
つまり危険性は極めて低い。少なくとも、今の状態では。
それにこの男が本当に私を殺す気なら、寝ている間にいくらでも機会はあった。少なくとも昨夜のこいつには、その素振りすらなかった。ルンバに負けて白目を剥いていただけだ。
そしてこの男が消えた場合――私の部屋に超常現象の痕跡だけが残り、警察に通報しても誰にも信じてもらえないという最悪の状況が発生する可能性がある。
何より。
何より――見捨てて死なせるのは、寝覚めが悪い。
前世のトラウマがどうあれ、目の前でこいつが消えるのを黙って見ていられるほど、私の良心は腐っていない。
――それに前世では……あんなに信頼していた相手でもある。
「……いいわ」
「!?」
「ただし! 条件がある!」
私は震える手で人差し指を突き付けた。
「一つ、業務連絡としてのキスであること。恋愛感情は一切関係ない!」
「……了解した」
「二つ、あくまで魔力供給のためだけ! 変な意味は一ミリもない!」
「……もちろんだ」
「三つ、他人には絶対に言わないこと! 万が一バレたら全力で否認する!」
「……承知した」
「四つ、私の名前を呼ぶ時は「奈々」か「お前」か、最低でも「君」にすること! 加齢臭はもう勘弁して!」
「……」
エリオットは三秒、沈黙した。
「……カレンシュ」
「呼んだーーー!!!」
この男、絶対にわざとだ。
私は両手で顔を押さえた。
ダメだ。この男、加齢臭の何が悪いのか根本的に理解していない。異世界エリートに日本語のおじさん事情を説明する語彙が、私にはない。
エリオットの声は、やけに平坦だった。
だが私は見逃さなかった。
あの絶対零度の大魔法使いの口元が、ほんの一瞬――かすかに、緩んだのを。
「……じゃあ、やるわよ。今すぐ。早く終わらせたいの」
「あ、ああ……」
向かい合う。
至近距離で見るエリオットの顔は、やはり暴力的なまでに美しかった。
完璧に左右対称の造形。長い睫毛。薄く色づいた唇。
全身に蕁麻疹の予兆が走る。これはアレルギー反応であって、断じてドキドキではない。
「い、いくわよ」
「……ああ」
目を閉じる。
心臓が壊れそうなほどうるさい。これは恐怖による動悸だ。恐怖だ。
三センチ。
二センチ。
一センチ――。
あ、一瞬前世の記憶が蘇る。
そう、あの時はずっとこうしたかった。こうする瞬間を夢見ていた。
月の綺麗な夜、魔術院の塔の回廊で、二人きりになったことがある。彼が何かを言いかけて、口を閉じて、結局「夜風は体に毒だ」とだけ言って自分のローブを私の肩にかけた。あの夜が、たぶん一番近かった。
実際は本当に何もなかったのだけれど。
お互いの立場、仕事。さまざまな要因が重なって好意を伝え合うところまでしかいかなかったのよ!
唇が、触れた。
……柔らかかった。
想像していたよりも、ずっと。
ほんのり冷たいのに、触れた瞬間、体の奥からじわりと温かいものが広がる不思議な感覚。
心臓の鼓動に合わせるように、自分の中の何かが相手の方へと流れ出していくのがわかった。
不思議と、嫌じゃなかった。
……それが一番の問題だった。
三秒。
長い、長い三秒だった。
唇を離す。
「……終わり。はい、業務完了。お疲れ様でした」
私は赤い顔を隠すようにそっぽを向いた。
背後から、かすかに息を呑む音がした。
「……ありがとう」
「うー、あくまでも業務! これはボランティアなんだからね!」
思わず突っ込んだ瞬間、くらっと眩暈がした。
恥ずかしさと怒りと、もみくちゃにされた感情のせいで、頭がぐらぐらする。
ていうか今の「ありがとう」は何。声が良すぎる。感謝の二文字にあそこまでの破壊力を込められる人類がいていいの?
振り返ると、エリオットの頬に、うっすらと赤みが差していた。
あの冷酷無比の氷の魔術師が、頬を染めている。
しかも、さっきまで消えかけていた瞳の光が、はっきりと戻っていた。
「――素晴らしい。こんなにも……」
エリオットは右手を掲げ、指先を鳴らした。
パチン、という小さな音とともに、テーブルの上に温かい紅茶が二つ、ティーカップごと出現した。
香り高いアールグレイの蒸気が、朝のゴミ屋敷に不釣り合いな優雅さで立ち上る。
ちなみにこのティーカップ、どう見ても国宝級の細工である。うちの食器棚の最高戦力が、コンビニ景品のマグカップだというのに。
「……たった三秒のキスで、これだけの魔力が回復するとは。やはり君は――」
エリオットが何か重大なことを言いかける前に、私は時計を見た。
「やばっ! もう七時半! 遅刻!!」
ゴミ袋を蹴散らしながら洗面所へ駆け込む。
優雅に紅茶を出している場合ではないのだ。こちとら現代日本の社畜なのである。
鏡の前で最低限の身支度を整えながら、私は小さく呟いた。
「……業務連絡としてのキスだから。毎朝のおはようのチュウ、それ以上でもそれ以下でもない。わかった? 自分」
鏡の中の自分は、まだ耳まで真っ赤だった。
あー、もうアレルギーが出そう!!
っていうか出たような気がする!!
全身が痒いような気がする!!
もう、これからどうすればいいのよ!!
頭を抱える私に、エリオットは微笑みかける。
完璧な造形の完璧な微笑。そして紡がれる言葉。
「ああ……君に……」
それに続く言葉は、朝から私のテンションをマックスに引き上げた。
――悪い意味で。




