3 消滅寸前の魔術師
翌朝。
私は目覚ましのアラームが鳴るより先に、自分の置かれた状況を思い出して飛び起きた。
「……夢じゃ、なかった」
夢であってほしかった。深夜のゴミ屋敷に魔法陣、前世の処刑人、ルンバの勝利。情報量が多すぎて、昨夜の記憶なのに三日前のことみたいだ。
恐る恐る横を見る。
ゴミ屋敷の床に広げた毛布の上で、銀髪の美丈夫がすやすやと眠っていた。
ボロボロのローブに包まれた長い手足は、いっそ絵画のように優美だ。寝顔だけ見れば、ルネサンス期の彫刻がうっかり息をしているとしか思えない。
しかも昨夜と違って、頬に少しだけ血色が戻っている。眠ると回復するタイプの遭難者か。
「…………顔が良すぎて犯罪」
見ているだけで蕁麻疹が出そうだ。
しかし問題は、顔の善し悪しではないっ!
前世で私を処刑した男が、うちの六畳一間で爆睡しているのだ。
――昨夜、ルンバに負けて白目を剥いて倒れたこの男を、私は結局放り出すこともできなかった。
気絶した人間を深夜の路上に放置するのは、さすがに人として(?)どうかという判断と、万が一目覚めた瞬間に怒って魔法をぶっぱなされたりしたら近隣住民に迷惑がかかるという、極めて消極的な危機管理の結果である。
断じて、情けではない。断じて。
§ § §
「――おはよう、カレンシュ」
こちらが朝の支度をしている最中、低く甘い声が背後から聞こえた。
「っ……」
私の朝の支度が止まった。
止まった。
止まらざるを得なかった。
カレンシュ。
それは確かに、前世の私の名前だ。異世界では高貴で、美しい響きを持つ名だった。
確かいと高き天に輝く星の祝福を受けし者、だったはず。
だがしかし。問題は日本語での発音であって。
日本語で聞くと、どう頑張っても加齢臭にしか聞こえない。
しかもこれを、絶世のイケメンが朝の六畳一間で、甘く囁くように言うのだ。
如月奈々、二十八歳、限界OL。今生で最もイケメンから言われたくないワードをナチュラルに浴びせられたよ?
しかも本人は最上級の敬意と親愛を込めている。それがわかるから、なお質が悪い。プレゼントのつもりで生ゴミを差し出されている状況を想像してほしい。贈る側に一切の悪意がないやつ。
「……お、おはよう……ございます」
声が震えた。羞恥なのか恐怖なのか、自分でもわからない。
振り返ると、エリオットが正座で起き上がり、こちらを見ていた。あの冷酷だったはずの氷の瞳は、今は犬のように真っ直ぐで、ちょっと不安そうだ。
銀髪は寝癖がついてあちこち跳ねているが、それすら似合っている。顔面暴力。
「なぜ敬語なんだ?」
「前世で殺されてるんで。一般的に、殺した相手にはタメ口きけません」
「…………」
我ながら手痛い一撃だったと思う。でも事実だから仕方ない。被害者には嫌味を言う権利くらいある。
エリオットは一瞬、氷の瞳を揺らした。
だが何かを堪えるように唇を引き結び、淡々と本題に入った。
「……カレンシュ。単刀直入に言う。私はこのままでは消える」
「ちょっと待って! その呼び方、やめてもらえませんか!?」
「……カレンシュ?」
「そう! それ! 日本語だと加齢臭にしか聞こえないんです!! 二十八歳の限界OLに向かって言う単語じゃないよねっ?!!」
声が裏返った。
エリオットはきょとんとして、それから困ったように眉を寄せた。
「……しかし、それが君の名だ」
「今生は奈々です! き・さ・ら・ぎ・な・な! なんなら奈々って呼んでくれていいんで!」
「ナナ……」
エリオットは確かめるように呟いた。そして、微かに首を横に振った。
「いいや。君はカレンシュだ。私はそれ以外の名では呼べない」
「ちょっと!?」
「――さあ、単刀直入に言う。カレンシュ、私はこのままでは消える」
「人の話聞いてーっ!!」
完璧にスルーされた。
この男、見た目だけじゃなくて頑固さまで規格外だった。
前世でもそうだった。一度こうと決めたら、国王陛下が説得しても動かなかった男だ。よりによってその頑固さを、私の呼び名で発揮しないでほしい。
「消える?」
「この世界には魔素が存在しない。私の体を構成している魔力は、今急速に拡散している。このままいけば……おそらく、あと半日ほどで消滅する」
消滅。
それは――つまり、死ぬということだ。
心臓が、嫌な跳ね方をした。
待って。なんで私が動揺するの。こいつは敵。私を殺した男。消えたら厄介ごとが減るだけ……のはずなのに、胸の奥がざわついて仕方がない。
「……ちょっと待って。あんた、わざわざ私を殺しに来たんじゃなかったの?」
「殺しに……?」
エリオットは、信じられないものを見たかのように目を見開いた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「私が君を殺すなどと、この先も過去にも、一度たりとも思ったことはない。――むしろ私は、君に会うためだけに、ここへ来た」
その声は震えていた。
嘘をついているわけではなさそうだ。少なくとも本人は、本気でそう思っている。
……それはそれで問題だが。
「……じゃあ、なんで前世であんな真似したの」
「それは……いずれ、必ず話す。今はただ、時間がない」
ずるい答えだ。でも、嘘をついている目ではなかった。「言わない」ではなく「言えない」――そんな響きが、声の奥にあった。
……気のせいかもしれないけど。
エリオットは正座のまま深々と頭を下げた。
異世界最強の大魔法使いが、コンビニ弁当のゴミに囲まれた六畳一間で、日本式の土下座をしている光景。シュールすぎる。
どこで覚えたの、それ。昨夜気絶している間に、この国の謝罪文化でも学んだんだろうか。無駄に学習能力が高い。
「カレンシュ。――君に、ひとつだけ頼みがある」
「だから加齢臭って呼ぶな!」
「……(完全無視)君に、ひとつだけ頼みがある」
「……無視した。完璧に無視した」
私は深呼吸した。この戦いは今日のところは諦める。
「なに……」
「私の消滅を防ぐ方法が、一つだけあるのだ」
エリオットは静かに顔を上げ、こちらの目を真っ直ぐに見つめた。
「……キスをしてほしい」
「…………は?」
私の脳が、一瞬バグった。
何を言ってるんだ、この男は!?
「……キスをしてほしい」
「…………は?」
二度聞いても、やっぱりバグった。
えー、それってどういうことよ!?




