48 魔法禁止命令
私は泣いた。
声を上げて、子供みたいに泣いた。
エリオットの冷たい手を両手で握りしめて、肩を震わせて泣いた。
霞が関での屈辱も、公安の事情聴取も、白峰さんの裏切りも、全部吹き飛んだ。
目の前で、この男が死にかけている。
自分を守るために。自分を笑わせるために。命を削って。
(バカヤロー)
涙で何も見えない。
気がついたら、動いていた。
エリオットの頬を両手で挟んで、顔を引き寄せた。
唇が、重なった。
血の味がした。鉄の、濃い味。あいつの血か、私の涙か、もうわからない。
夢中だった。泣きながら、唇を押しつけて、もっと深く。舌を割り込ませて、引き寄せて。縋るように。縛りつけるように。
エリオットが、微かに答えた。
冷え切っていた唇が、少しだけ動いた。
その瞬間、胸の奥で何かが解けた。前世から刻み込まれた本能が動いていた。魔力の伝導。唇から唇へ、私の中にある光が、細い糸になってエリオットの中へ流れ込んでいく。
エリオットの胸が、大きく動いた。
息を、吸った。
しっかりと、深く。
私はゆっくりと唇を離した。血と涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、エリオットの顔を見つめた。
蒼い目に、焦点が戻ってきていた。頬に、微かに色が滲んでいる。
「……奈々」
掠れているが、さっきより声が出ていた。
「うるさい。しゃべるな」
私はエリオットの手を握り直した。
(……あの子が私を憎むのは構わない……でも、こいつがこんな風になる原因をあの子がつくったのなら……もう容赦はできないっ!)
その激しい怒りが、胸の奥で燃えた。
それは前世のカレンシュではない。現代の限界OL、如月奈々としての、剥き出しの感情だった。
§ § §
泣き疲れて、気がつくと朝だった。
リビングの床に座り込んだまま、エリオットを抱きしめていたらしい。頬を彼の胸に埋めていた。
ん……うん、緊急時だったからね。
添い寝で魔力の移譲もしなきゃだったからね。
うん、仕方ないよね。
ピロリ、と傍らで電子音が鳴る。
気のせいかるんすけがニヤニヤと私たちを見ている気がした。
「こっち見んな!!」
――またピロリ。いや、ホント気のせいだと思いたいんだけど!!
首と背中が痛い。二十八歳の身体は、床で一晩過ごすようにはできていない。
エリオットが目を開ける。
顔色はまだ白いが、昨夜よりは少しだけマシに見える。薄く目を開けて、天井を見つめている。
「……起きてたの?」
「一時間ほど前から」
声は掠れているが、昨夜のあの消えそうな声よりは力がある。
「とりあえずソファに座りなよ。ほら、こっち」
私はエリオットの手を引いて、ソファへと促した。
強い口調で言った。でも、声が震えている。
エリオットがゆっくりとこちらを見た。あの蒼い目。いつもの真顔。でも、その底に疲弊と後悔が滲んでいる。
「……カレンシュ」
「だから加齢臭って言うなって」
反射的に返したが、いつもの勢いがない。
「……すまなかった。隠していたことを謝る」
エリオットが、静かに話し始めた。
この現代の、魔素がない世界で、彼がどれだけ無理をしていたか。
毎朝のキスで得られる魔力は、自分が生存するギリギリの量に過ぎないこと。私のための大魔法――空間拡張、全回復ディナー、認識阻害の結界――は全て、自分の魂を削って補っていたこと。
日中、私が仕事に行っている間、部屋で瞑想してひたすら魔力消費を抑えていたこと。るんすけだけが話し相手だったこと。
「あんたがニートだったのって……働く余裕がなかったからじゃなくて、生き延びるために魔力を温存してたから……」
「そうだ」
「るんすけに愚痴ってたのも、他に話し相手がいなかったから……」
「……るんすけは良い聞き手だ」
足元で、るんすけが小さな電子音を鳴らした。
私は、唇を噛み締めた。
この男は。
私のために命を削ってご飯を作り、命を削って部屋を快適に保ち、命を削って見守り、今度は命を削って助けに来ようとして倒れた。
全部、私のため。
私が笑ってくれるのが嬉しかったから。
そんなの、バカだ。バカすぎる。
「エリオット」
「何だ」
「もう魔法は使わないで」
エリオットの目が、わずかに見開かれた。
「もう空間拡張もいらない。ディナーの錬成もいらない。最低限の認識阻害だけ維持して、あとは全部止めて。普通にご飯食べて、普通に寝て」
「しかし――」
「あんたの魔法なんかなくても、私が全部ひっくり返してやるから」
真っ直ぐに、エリオットの目を見た。
「白峰さんの罠も、公安の件も、全部私が自分の力でなんとかする。あんたは休んでなさい」
エリオットが、言葉を失った。
蒼い目が揺れている。永き時を生きてきた大魔法使いが、限界OLの言葉に打ちのめされている。
「………奈々……如月奈々」
不意に、初めて、今生の名前で呼ばれた。
フルネームで。
「ッ――」
不意を突かれた。
私という、親の愛情のない番号を、断固として呼ばなかったこの男が。
「……奈々。すまなかった」
「謝るな」
「だが」
「謝るなっつってんだろ!」
大声が出た。涙がまた出そうになるのを、必死に堪えた。
「あんたが謝ることなんか何もない。ご飯が美味しかったのも、部屋が快適だったのも、全部本当のことだから。ただ、対価が命だってのが問題なんだよ」
私は立ち上がった。膝がまだ少し笑っているけど、もう倒れない。
「今日は休む。あんたも休め。明日から私が動く」
キッチンに向かった。
冷蔵庫を開ける。昨日のエリオットの作り置きが残っていた。だし巻き卵。
温め直して、二人分の皿に盛った。
テーブルに置く。
「食べて。命削ってないやつ」
エリオットが、かすかに笑った。
笑ったのかどうか怪しいくらい微かだったが、あの真顔の氷が、ほんの一瞬だけ溶けた。
「……いただきます」
エリオットの笑顔を見て、小さく笑みを浮かべながら私は思う。
――反撃だ。
これ以上、こいつの魂を削らせたりはしない。
私が全部……ひっくり返してやるっ!!




