46 呪詛空間との衝突
池袋のアパート。
私は瞑想していた。
目を閉じ、座り込み、微かに残った魔力を細く長く循環させる。今日も奈々は出勤し、私は部屋で「ぽつんと待つ」。足元でるんすけが静かに掃除をしている。
千里眼は常に稼働している。奈々の姿を映し続けている。彼女が安全であることを確認するだけの、ただそれだけの魔法。
しかし――千里眼がノイズを拾った。
普段は透明に映るプロジェクトルームの映像に、黒いスーツの男たちが映り込んだ。四人。揃った動き。表情のない顔。
嫌な予感がした。いや、予感ではない。経験だ。
永き時を生きてきた私の直感が、あの光景を知っている。
宮廷衛兵。逮捕に来る者たちの動き方だ。
千里眼の解像度を上げた。
男の口が動く。「如月奈々さん。あなたのアカウントです」
目を見開く。
立ち上がった。反射的に。
「もう充分だ」
声が出ていた。自分に言い聞かせるように。
「君は充分に戦った。ここから先は私が――」
空間転移の術式を展開した。
池袋のアパートから霞が関の合同庁舎まで、直線距離で約七キロ。通常なら一瞬で跳べる。
魔法陣が足元に広がり、蒼い光が部屋を照らした。るんすけが驚いたように後退する。
空間を把握。跳躍を開始する!
空間が歪み、次元の隙間に身体が滑り込む――
その瞬間。
衝突した。
見えない壁に。
「――ッ!!」
全身を圧搾されるような衝撃。空間転移の途中で、何かに弾き返された。壁ではない。もっと巨大な、もっと根源的な力。
アパートの床に叩きつけられた。
背中から着地した衝撃で肺の空気が全て吐き出される。
「がッ……はっ……」
起き上がろうとして、身体が動かない。
両手でリビングの床を押し、なんとか上体を起こした。
何が起きた。
千里眼で霞が関を見る。建物の周囲に、ぼんやりとした「膜」が張られていた。
透明で、目には見えない。千里眼の超高解像度でようやく輪郭が捉えられる程度の、極めて微細な結界。
だが、その結界の「素材」を認識した瞬間、顔から血の気が引いた。
これは、魔法ではない。
魔素を使っていない。
この力は――
「対空間転移……神の呪詛空間」
声が震えていた。
この術式を構築できる存在は、ただ一つ。
千里眼の焦点を切り替えた。プロジェクトルームの中を見る。席に座ったまま、心配そうな顔をしている栗色の髪の白峰。
あの女。奈々から正体を聞いた時は、まだ半信半疑だった。認知阻害の呪縛のせいで、千里眼で覗いても白峰の姿は「一般女性」としか映らなかったからだ。
だが今、呪詛空間に物理的に激突したことで、認知阻害のフィルターに一瞬だけ亀裂が入った。
白峰の輪郭が揺らぎ、その奥に「別の何か」が重なった。
白い法衣。祈りの手。聖女の面影。
――間違いない。あれは、フィオレンティーナだ。
私の歯が、軋み、嫌な音を立てる。
同時に、理解した。
なぜ千里眼で、この巨大な結界の構築を事前に検知できなかったのか。
「認知阻害の呪詛」
前世で聖女が私に科した呪縛。神の力による強制的な認知書き換え。白峰の正体だけではない。白峰が行使する「力」そのもの――結界の準備も、呪詛の発動も、全てが千里眼の映像から自動的に消去されていた。
私の千里眼は正常に動いていた。霞が関のビルも、白峰の姿も、正確に映っていた。
だが、呪いがフィルターとなり、白峰の「行動」だけを「ただの残業風景」に書き換えていたのだ。
奈々から正体を聞かされてなお、確信できなかった理由が、ようやく腑に落ちた。
そもそも別世界で、聖女の呪いによる制約が働いていることに疑問を持つべきだった。今この瞬間まで、私自身が思考を制御されていたのだ。
本来であれば、創造神アナンケの力がこの世界でも働くなど、ありえない。なのに、私はそれを疑わなかった。
聖女が、神の力の媒体となりこの世界にもその力を及ぼしていたのだろう。
「……見事な罠だ」
吐き捨てるように呟いた。
あの聖女は、私が約束を破って転移してくることすら、最初から盤面に組み込んでいた。
前世でカレンシュを処刑台に送り、私の口と目を封じ、全てを奪った聖女。
そして今また、同じ手口で――いや、前世以上の精度で、全てを仕組んでいる。
立ち上がった。
空間転移は通じない。なら、力ずくで突破する。
残りの魔力を全て集中させた。
もう残っていない。キスで蓄えたなけなしの魔力は、日常の認識阻害と千里眼の維持でほぼ使い果たしている。
なら――足りない分は、いつもと同じだ。
「魂」を削る。
§ § §
私の身体から、蒼い光が溢れた。
それは魔力の光ではなかった。
魂そのものが燃えている光だった。
魔素のない現代日本で、彼が私のために大魔法を使い続けてきた真実。
空間拡張も、全回復ディナーの錬成も、認識阻害の結界も。キスで得たなけなしの魔力だけでは、到底まかなえない。足りない分は、自らの魂――つまり命を削って補填していた。
そして私は今、その最後のストッパーを外そうとしている。
神の呪詛空間を力ずくで突破する。
必要な出力は、通常の空間転移の数十倍。現在の魔力残量では、その出力を得るためには魂を致命的なレベルまで削らなければならない。
「――開け」
魔法陣が再展開した。
蒼い光が部屋を満たし、アパートの壁が震える。るんすけが必死に後ずさりしている。
神の呪詛空間に、再び突入した。
衝撃。
透明の壁が、今度は砕けかけた。亀裂が走り、向こう側が見えかける。
だが、亀裂は即座に修復された。神の力は一度破壊しても自動回復する。魔法とは格が違う。
「まだだ……!」
魂を、さらに削った。
燃えている。胸の奥で、自分という存在の核が、溶けるように燃えている。
二度目の衝突。三度目。四度目。
呪詛空間に亀裂が走り、修復され、また亀裂が走る。
五度目。
壁が砕けた。
一瞬だけ、完全に穴が開いた。向こう側に霞が関のビルが見える。
跳ぼうとした。
だが、身体が動かなかった。
「――がっ」
口から、赤い液体が溢れた。
血。
大量の血が、白いシャツを染めた。
膝が折れた。
リビングの床に、私は崩れ落ちた。




