44 バックドアからの罠
月曜日の朝。
私が出勤すると、白峰さんはもう席についていた。
「おはようございますぅ、先輩!」
いつもの笑顔。いつもの声。
だが、私の目には見えていた。白峰さんの目の下に、薄い隈。昨夜、あまり寝ていないのだろう。
この一週間、白峰さんは表面上は完璧なゆるふわ後輩を演じ続けていた。しかし、内側で何かが変わったことを私は感じていた。あの給湯室の後、白峰さんは一切の罠を仕掛けてこなかった。データの改竄も、人への工作も。
静かすぎる。嵐の前の静けさだった。
§ § §
その日の午後。
お姉様が席を離れた隙に、わたくしは動きました。
プロジェクトの中枢サーバーにアクセスします。わたくしのアクセス権限は一般メンバーレベルですが、問題ありません。
わたくしは自分のPCではなく、お姉様のアカウントを使いました。
準備は、とうに完了していました。財務省の山本――プロジェクトのセキュリティ管理副担当。実直で几帳面な男。彼に、ほんの小さな「聖女の魅了」をかけたのは、着任三日目のことでした。
給湯室で二人きりになった一瞬。わたくしの指先から、目に見えない干渉が放たれました。
自律神経を乱す呪詛ではない。もっと繊細な、「判断力の微細な書き換え」。対象が特定の行動を取ることへの抵抗感を、ほんの少しだけ薄める。本人には全く自覚がありません。
その翌日、山本はシステム管理者コンソールを開きました。通常業務の一環として。そして「省庁間連携のテスト設定として」わたくしのアカウントに、お姉様の閲覧権限を一時的に付与する設定変更を行いました。理由を聞かれれば「連携テストのためですよ」と答えるはずでしたが、誰も聞かなかった。
山本自身も、翌日にはその操作をしたことをほぼ忘れていました。魅了の仕様です。行動させた後、記憶の重要度を下げる。
お姉様のアカウントでログインします。自分のPCから、正規のログイン経路で。ログには「如月奈々のアカウントがアクセスした」と刻まれます。
プロジェクトの物流セクション、最重要機密データに到達しました。
国際貿易特区の設計図面。関税免除の対象品目リスト。各国との非公開合意事項。
数千億円規模の国家機密。
指が、データを選択しました。
送信先は、五日前に用意した海外のダミー企業のメールサーバー。実体のないペーパーカンパニー。実家のITエンジニアに魅了をかけ、用意させたものでした。彼自身は、何をしたか覚えていないでしょう。
一瞬の躊躇い。
指が、キーボードの上で止まりました。
(ここを越えたら、もう戻れない)
データの改竄やExcelのバグ程度なら、バレても「操作ミスでした」で済みます。通訳官の体調不良も、わたくしの関与を証明する方法はない。
だが、これは違う。
国家機密の流出。国家反逆罪に問われかねない、取り返しのつかない犯罪行為。
そしてその全てが、お姉様のアカウントから実行されたように見える。
(先輩。ごめんなさい)
目の奥が、熱くなりました。
(でも、こうしないと。あなたを完全に壊さないと。全てを失って、膝をついて、一人で泣いている先輩の手を……わたくしが握るためには)
エンターキーを押し、そしてデータが送信されました。
§ § §
何事もなかったかのように、わたくしはログオフしました。
ブラウザの履歴を消去し、キャッシュをクリアし、一時ファイルを削除します。
だが、ログは残ります。サーバー側のアクセスログに、「如月奈々」のアカウントから海外のIPアドレスに機密データが送信された記録が、消せない形で刻まれています。
あとは時間の問題でした。
セキュリティチームが定期監査で異常を検知するか、あるいは――
わたくしは、自分のスマホを取り出しました。
短いメッセージを一本、あるところに送信しました。
宛先は、内閣官房の情報セキュリティセンター。
匿名の通報フォーム。
『国際経済特区推進室のプロジェクトメンバーが、機密データを海外に流出させている可能性があります。アクセスログをご確認ください』
§ § §
わたくしは席に戻り、何事もなかったかのように書類を広げました。
横でお姉様が、夕方の会議用の資料をまとめています。眉間にちょっとだけ皺を寄せて、データを睨んでいる顔。六年分の疲労が染みついた、でもどこか強い横顔。
「白峰さん、この資料のここなんだけど――」
「はいぃ?」
お姉様が画面を指差して、わたくしに質問します。いつもの、疑いのかけらもない顔。
微笑んでアドバイスをしました。
心臓が痛い。
文字通り、痛い。
でも、止まれない。もう止まれない。




