43 魅了の崩壊
一週間が経った。
私は毎日、昼休みにチームメンバーの席を回った。
エリオットの弁当を差し入れ、業務の相談に乗り、困っている案件を一緒に考える。前世で培った人心掌握術と、ブラック企業仕込みの現場の根回し。二つの武器を静かに、でも確実に振るっていた。
――しみじみと思う。何故前の会社でこれが出来なかったのか、私は。
追い詰められ、限界まで疲弊した毎日は本来の力さえ発揮できなくする。今の私なら、もしかしたら、会社を変えられたのかもしれない。そう思うと少しだけ悔しい気持ちも湧いてきたけど、もう過去の会社のことは水に流す!
火曜日。経産省の佐々木さんに、物流コストの分析方法を教えた。「如月さんのやり方、目から鱗です」と感謝された。
水曜日。国交省の鈴木さんが行き詰まっていた法改正の素案を、前世の国家財政管理のノウハウで整理してあげた。「どうしてこんな複雑な法体系をスラスラ読み解けるんですか」と驚かれた。前世で似たようなのを百本は読んだからだよ、とは言えないけれど。
木曜日。コンサルの木村さんに、海外政府との交渉テクニックをアドバイスした。「この提案書、相手国の文化的なプロトコルに合わせた方がいいですよ。向こうではまず世間話から入るのが礼儀なので」木村さんは翌日の会議でそのアドバイスを使い、大成功した。
一人、また一人。
私の誠実なサポートが、聖女の魅了に薄い亀裂を入れていく。
エリオットの弁当が、微かな精神安定のバフで、彼らの判断力を正常域に引き戻す。
§ § §
金曜日の午後。
会議中に、小さな異変が起きた。
白峰さんが提出した進捗報告書について、議論する場面。
「白峰さんの報告書、少し楽観的な数字が入っていませんか?」
発言したのは、山本さんだった。先週まで白峰さんの意見に無条件で従っていた、あの財務省の山本さん。
会議室が一瞬、静まった。
白峰さんがゆっくりと山本さんの方を向いた。
「え? どの部分ですかぁ?」
白峰さんの声はいつも通り柔らかい。だが私には、その柔らかさの下に走った緊張が見えた。
「三四半期の輸出予測値です。前提条件に楽観シナリオしか含まれていない。リスクシナリオを入れると、この数字は十五パーセントほど下がるはずです」
佐々木さんが頷いた。「僕もそう思います。先日如月さんに教えてもらった分析方法で計算し直したら、山本さんと同じ結論になりました」
白峰さんの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
「……あ、そうなんですねぇ。じゃあ修正しますぅ」
笑って応じた。いつものゆるふわ。
私は見た。白峰さんがペンを握る指先が、わずかに白くなっていたのを。
§ § §
会議後。
廊下で、鈴木さんが私に声をかけてきた。
「如月さん、ちょっといいですか」
「はい、どうしました?」
鈴木さんは周囲を確認してから、小声で言った。
「あの……白峰さんのことなんですが。最近、なんか違和感があって」
私の心臓が跳ねた。顔には出さない。
「違和感?」
「うまく言えないんですけど……白峰さんの提案って、なんか最初からそう思ってた気がしてたんです。でも冷静に考えると、僕の本来の意見と全然違ってて。なんでだろうって」
(覚醒が始まっている)
私は静かに頷いた。
「鈴木さん、自分の直感は大事にしてください。データに基づいて、自分の頭で考えた結論が一番信頼できます」
「ですよね……。ありがとうございます、如月さん」
鈴木さんが去った後、私は廊下の窓から空を見上げた。
味方が増えている。一人ずつ、確実に。
――そう思った、その時だった。
廊下の突き当たりに、白峰さんが立っていた。
こちらを見ている。いつものゆるふわの笑顔で。完璧な、人畜無害な後輩の顔で。
なのに、背骨を冷たい指が一本ずつ撫でていった。着任初日のあの悪寒が、今までで一番はっきりと戻ってくる。
笑っているのに、その目は何も映していない。勝ち負けも、焦りも、もうそこにはなかった。何かを通り越して凪いでしまった、人の目だ。
前世で、一度だけ見たことがある。
もう失うものは何もないと決めた人間が、最後にする顔だ。
(……まずい)
魂が、警報を鳴らしていた。この子は小細工をやめた。やめて、もっと別の場所へ行こうとしている。
でも、それがどこなのか――今の私には、まだ見えなかった。
白峰さんが、ぺこりと頭を下げて、踵を返した。
廊下の角の向こうに、その背中が消えていく。後に残ったのは、冷たい予感だけだった。
§ § §
わたくしは、空いた会議室に一人で座っていました。
手帳を開き、今日の記録を書こうとして、ペンが止まりました。
山本さんが反論した。佐々木さんが同調した。鈴木さんが疑問を持ち始めている。
――わたくしの魅了が、解け始めている?
一対一で人の心を掴む力なら、わたくしにも自信がありました。神の奇跡を背景にした魅了は強力です。普通なら、これほど短期間で解けるはずがないのに。きっとあの魔法使いの力で――。
いいえ、お姉様は奇跡や魔法の力では戦っていない。
幾許かの力添えはあるかも知れない。けれど、弁当を差し入れ、一緒に悩み、的確なアドバイスをし、相手の実力を認めて伸ばす。そんな誰にでも出来る普通の行動で、私の魅了を解いていく。
「この人のために頑張りたい」と思わせる、生身の人間としての魅力。
それは、前世でも同じでした。
カレンシュは、宮廷の全ての官僚から愛されていた。聖女の奇跡で買った忠誠は、カレンシュのたった一言の感謝に敵わなかった。
(また……またお姉様に負けるの?)
手帳に、ぎりぎりとペンを押しつけました。インクが滲んで、ページに黒い染みが広がっていく。
(もう、小細工は通じない。データも、人も、言葉も。お姉様はいつも目が覚めたみたいに輝いていて、わたくしになんか見向きもしない)
胸の奥で、何かが軋みました。最後の理性を繋ぎ止めていた糸が、ぎりぎりと。
(なら――)
手帳を閉じました。
(もう、わたくしを止められないところまで行くしかない)




