40 本性を現した笑顔
会議終了後。
分厚いファイルが閉じられ、会議室に沈黙が降りた。
それから、拍手が起きた。
最初に手を叩いたのは、あのペンを落とした経産省のエリートだった。次に外務省の担当者。コンサルの人間も、シンクタンクの学者も。朝倉座長が、穏やかに微笑みながら深く頷いている。
「如月さん。見事でした」
足がガクガクしている。正直、今にもへたり込みそうだ。
でも、立っている。前世の令嬢は、どんなに疲れても人前で膝を折らない。
「……ありがとうございます。高橋さんのご回復を、お祈りいたします」
白峰さんも、席で拍手をしていた。にこにこと、完璧な笑顔で。
ありがと、心配してくれてたんだね!
でも私、大丈夫だから!
§ § §
(――嘘でしょう)
笑いながら、奥歯が軋みました。
神の力で通訳を潰した。三カ国語のハードルを突きつけた。
なのに、この女は全て自力で突破した。
魔法でも、チートでも、エリオットの助けでもない。
純粋な「語学力」と「交渉術」という、ただの人間のスキルで。
前世でも、今生でも。
お姉様は、いつだって自分の力だけで切り拓いてしまう。
拍手する手が、一瞬だけ止まりました。
すぐに再開して、笑顔に戻りました。でも、その奥から、最後の余裕が消えていきました。
§ § §
廊下で朝倉氏に声をかけられた。
「如月さん。やはり、あなたをお呼びして正解でした」
「いえ、そんな……」
「次回の会議でも翻訳と、そして物流セクションの主担当をお願いできますか」
主担当。WAGEプロジェクトの、主担当。
「……はい。喜んで」
声が震えていないか心配だったけど、たぶん震えていた。
だけど、朝倉氏は穏やかに笑って、「期待していますよ」と言ってくれた。
§ § §
帰り道。
池袋のアパートのドアを開けた瞬間、玄関にエリオットが立っていた。
「おかえり」
「……ただいま」
靴を脱ぐ力が残っていなくて、玄関に座り込んだ。
「見てた?」
「見ていた」
「どうだった?」
エリオットの蒼い瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……見事だった。あの頃の君を、思い出した」
前世の宮廷。各国の大使を相手に、堂々と渡り合っていた十八歳のカレンシュ。
この男は、その姿を永い間ずっと覚えているのだ。
「お疲れ様。風呂を張ってある。夕食は君が上がってからだ」
(……このヒモ、すごくいい仕事するんだよな)
靴を脱いで立ち上がった。足はまだ少し震えている。
「エリオット」
「何だ」
「……だし巻き、四個にして」
「三個増量して七個にする」
増やしすぎだよ。太っちゃうよ?
§ § §
翌週の火曜日。
あの会議の後、私の評価は急上昇していた。
「三カ国語を操る民間枠の女性」の噂は霞が関のフロアを駆け巡り、他の省庁からも「うちの会議にも出てくれないか」と声がかかるようになった。
名刺を資料の下に隠していた財務省のエリートが、今では向こうから挨拶してくる。
外務省の仏頂面さんに至っては、「如月さんの語学力、外務省でも通用しますよ」と真顔で言ってきた。それ、褒めてるの? スカウトしてるの?
白峰さんはいつも通り、にこにこしていた。
私の成功を一番喜んでいるように見えた。「さすが先輩!」「かっこよかったですぅ!」と弾む声で祝福し、チーム全体のムードメーカーとして完璧に機能している。
だが、私は気づいていなかった。
白峰さんの笑顔の精度が、日に日に上がっていることに。
完璧すぎる笑顔は、もはや笑っているのではなく、「笑っている」という記号を顔に貼り付けているだけだった。
§ § §
その日の午後。
私は給湯室でコーヒーを淹れていた。
午後の会議に備えて資料を再チェックする前に、カフェインを補給する。黒いコーヒーにミルクを少しだけ。前世はお茶派だったけど、現代人になってからはコーヒーの方が効く。
限界OLの六年間で、カフェインは命綱だった。
背後で、給湯室のドアが閉まった。
振り返ると、白峰さんが立っていた。
「……先輩」
声のトーンが違った。
いつもの甘い語尾伸ばしがない。「ですぅ」が消えている。
「白峰さん? どうしたの、コーヒー飲む?」
白峰さんは動かなかった。
給湯室の蛍光灯の下で、栗色の髪が揺れている。大きな瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。
その瞳の奥に――何かが燃えていた。
「先輩」
白峰さんが一歩、前に出た。
「どうして。どうしていつも、お姉様はそうやって私の救済から逃げるの?」
世界が、止まった。ような気がした。




