41 壊してから救う愛
コーヒーカップを持つ手が、固まっている。
「……え?」
「データも直した。通訳も要らないと切り捨てた。誰の助けもなく、全部自分でやってしまう。私が……私が手を差し伸べる隙を、一ミリも残してくれない」
白峰さんの声が震えていた。怒りなのか、悲しみなのか、判別がつかない。
いや、両方だった。
「白峰さん、何を言って……」
「私は、あなたを救いたかった」
白峰さんがもう一歩、前に出た。この子のゆるふわの空気が、完全に消えていた。
代わりにそこに立っていたのは、全てを知っている目をした、見知らぬ――いや、かつて、よく知っていた女性だった。
「あの会社で、黒田にいじめられて、毎晩泣きながら帰ってきて。私はずっと見ていた。ずっと待っていた。先輩がもう限界だって、もう無理だって言ってくれるのを。そしたら私が――」
白峰さんの声が、裏返った。
「私が全部引き受けて、ボロボロの先輩を優しく包んで、『もう大丈夫だよ』って言ってあげるはずだったのに」
私は、マグカップを握りしめていた。
指が白くなるほど。
今の言葉の中に、聞き覚えのある響きがあった。
前世の記憶の奥底で、何かが軋んだ。
「白峰さん……あなた、さっき何て言った?」
「お姉様」
白峰さんが、その言葉を、はっきりと発音した。命を削るような、切実な響き。
「あの頃と同じ。処刑台の上でも、あなたは笑っていた。一度も泣かなかった。一度も私に助けを求めなかった。私を必要としてくれなかった」
§ § §
コーヒーが揺れた。
カップの中の黒い液面が、私の手と一緒に震えている。
……お姉様。
……処刑台。
ちょっと待って。
ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って。
この子、今なんて言った? お姉様? 処刑台? なんで知ってるの。なんで知ってるの!?
着任初日から感じていた、あの悪寒。背骨を一本ずつ数えるような冷たい指先の感覚。
あれは、前世の記憶が発した警報だった。
「あなた……」
私の声が、掠れた。
「聖女……フィオレンティーナ……?」
白峰さんの顔が、歪んだ。
笑顔でも、怒りでもない。もっと複雑な、痛みに満ちた表情。
「覚えていてくれたんですね、お姉様」
その声は、もうゆるふわの後輩ではなかった。
宮廷の神殿で祈りを捧げていた、孤独な少女の声だった。
「白峰さん。顔を上げて」
「……」
「フィオ」
前世の愛称を呼んだ瞬間、白峰の身体がびくりと震えた。
涙でぐしゃぐしゃの顔が、上がった。
§ § §
「あなたがしたことは、絶対に許せない。でも」
私は、白峰の目を見つめた。
「私も気づけなかった。あなたがあの宮廷で、どれだけ孤独だったか。私が全部一人で頑張ることで、あなたの居場所を奪っていたことに」
白峰さんの瞳が、揺れた。
「でもね、白峰さん。誰かを壊してから救うのは、救済じゃない。それは支配だよ」
静かに、でもはっきりと。
前世の令嬢の声ではなく、現代の限界OLの声で、そう言い切った。
「私は、あなたに『助けて』とは言わない。それは嘘になるから。でも、あなたがここから先の道で迷ったら、一緒に考えることはできる。それは壊さなくても、できることだよ」
§ § §
白峰さんは、何も答えなかった。
涙だけが、リノリウムの上にぽたぽたと落ちていた。
やがて、給湯室のドアの向こうで、昼休み終了のチャイムが鳴った。
白峰さんが、ゆっくりと立ち上がった。涙を拭い、髪を直し、スカートの皺を伸ばした。
その顔に、いつものゆるふわの笑顔が戻った。
だが、その笑顔の下にあるものが何なのか――私には、もうわかっていた。
「先輩。……午後の会議、始まりますよぅ」
語尾伸ばしが、戻っている。でも、さっきまでとは微かに違う。
白峰さんがドアを開けて出ていった。
私は、冷めたコーヒーを見下ろした。
全ての点と点が繋がった。
着任初日の悪寒。完璧すぎる笑顔。エリオットの千里眼が「無害」と判定した理由。
あの子は、「魔法」ではなく「神の力」を使っている。だからエリオットの探知に引っかからない。
そして、その力は前世から続く「呪縛」として、エリオットの認知すら欺いている。
(エリオットに伝えなきゃ。でも……まだ全貌が見えない。白峰さんがどこまでのことを企んでいるのか)
私は立ち上がった。
冷めたコーヒーを流しに捨て、マグカップを洗い、給湯室を出た。
ここからが本当の戦いだ。




