39 三カ国語で制す
最初の十分間で、会議室の空気が完全に変わった。
「Regarding the tariff exemption framework for the special economic zone, we have prepared a revised proposal. The key amendments are as follows――」
私が流暢な英語で説明を始めた瞬間、経産省のエリートがペンを落とした。ふふ、実はかなりネイティブな発音が出来るのだ。
「ขออภัยครับ สินค้าเกษตรแปรรูปของเรา จะรวมอยู่ในข้อยกเว้นนี้ด้วยหรือไม่ครับ?」
(……失礼。この特例措置に、我々の農水産加工品は含まれるのでしょうか?)
円卓の向かいから、タイの政府高官がふと探りを入れるように母国語で尋ねてきた。通訳不在の状況で、どこまで対応できるか試してるのね。まぁ無理もないか。
「ใช่ค่ะ สามารถใช้ข้อยกเว้นตามประกาศฉบับที่สามได้ค่ะ รายละเอียดระบุไว้ในเอกสารแนบนะคะ」
(はい。第三号通達に基づく特例として適用可能です。詳細は添付資料に)
一切の淀みのない、流暢な発音(女性の丁寧語尾khaの柔らかな響きまで)による即答。意地悪な質問をした高官の目が丸くなり、次いで嬉しそうに深く頷いた。
「Permisi, berapa lama waktu yang dibutuhkan untuk proses bea cukai dengan kerangka baru ini?」
(すみません、新枠組みでの通関手続きにはどれくらい時間がかかりますか?)
「Prosesnya akan dipersingkat menjadi maksimal dua hari kerja, Bapak.」
(最大二営業日に短縮されます、担当官殿)
息をつく間もなく、今度はインドネシアの担当者の懸念に対し、完璧なジャカルタのビジネス敬語(Bapakを添えた丁寧な表現)で即座に補足する。
三つの言語が、同じ口から滑らかに切り替わる。
しかもただの通訳ではない。各国の文化的な慣習を踏まえた言い回し――タイの高官にはkhaを使った敬意表現で、インドネシアの担当者にはジャカルタのビジネス敬語で、それぞれの国の「心地よい距離感」を完璧に設計した対話。
これは前世で得た技術だった。
カレンシュ・ハーゲンは、七歳から隣国の客人をもてなす教育を受けていた。十二歳で三カ国語を習得し、十五歳では国際会議の末席に座り、十六歳では堂々と外交の最前線に立っていた。
言語は、ただの道具ではない。
相手の文化を理解し、敬意を表し、信頼を勝ち取るための武器。
この世界に生まれ変わってからも、異なる言語を習得する技術は健在で、カレンシュならぬ『如月奈々』としての私も時間を見つけては異国の言語を学んでいた。
前世の貴族教育で叩き込まれた「人の心を掴む外交術」が、現代の会議室で完全に再現されていた。
§ § §
会議の中盤。
関税免除の範囲について、タイとインドネシアの間で意見が対立した。
タイ側は広い免除範囲を求め、インドネシア側は自国産業の保護を主張する。いずれも正当な立場であり、どちらかを選べばもう片方が離脱しかねない。
朝倉座長が困った顔で私を見た。
大丈夫。このチームのメンバーは優秀だ。だから、私は翻訳に徹する。ただし、ただの翻訳者ではない。
前世では何度もこんな場面を経験してきた。翻訳するときの語調、そしてさりげない誘導。幾つもある落としどころの中から、両国が納得できる妥協点に向かって誘ってゆく。
会議が白熱する中、私は朝倉さんに向かって挙手した。
「あの、朝倉さん。ちょっとよろしいですか? 翻訳の分を超えていますが私から提案があります」
「ん? 何かな?」
「これは、三国のどこもが納得できる妥協点だと思います」
私は一拍置いてから、タイの高官にタイ語で語りかけた。
「ท่านคะ ดิฉันเข้าใจข้อกังวลของท่านดีค่ะ――お考えはよく理解しています。ですが、段階的な免除の拡大という『第三の選択肢』をご検討いただけませんか」
続いてインドネシア語に切り替えた。
「Bapak, kami sangat menghargai posisi Indonesia. 提案としては、最初の三年間は現行関税を維持し、結果に基づいて段階的に緩和する。これなら貴国の産業を守りながら、長期的な成長も確保できます」
両国の代表が、顔を見合わせた。
第三の選択肢。どちらも損をしない妥協点。
前世のカレンシュが、国王の無茶な要求と隣国の頑固な主張の間で幾度も編み出してきた、「全員が勝つ交渉術」。
タイの高官が、ゆっくりと頷いた。
インドネシアの担当者が、メモを取り始めた。
「……素晴らしいご提案です」
マレーシアの代表が、感心したように声を上げた。
会議室の日本側メンバーが、全員、私の方を見ていた。
もう誰も、「名もなき中小企業の一般職」だとは思っていなかった。




