37 数字改竄、即看破
金曜日。
今度は、データの数字を改竄しました。物流コストの試算表に、小数点以下の微細なズレを複数箇所に仕込みました。
一つ一つは誤差の範囲。だが積み重なれば、最終的な収支予測に数パーセントの乖離が生じます。そしてその乖離が表面化した時、「データを管理していた如月奈々の計算ミス」として処理されます。
わたくしは昼休みに、先輩の席が空いた隙をついて仕込みを終えました。
午後、お姉様が試算表を開きました。
「……ん?」
お姉様の動きが止まりました。
数秒間、画面を見つめています。
それからマウスを動かし、セルを一つずつクリックし始めました。
「白峰さん、ちょっとこれ見てくれない?」
隣に呼ばれました。心臓が跳ねましたが、顔には出しません。
「はいぃ、何ですかぁ?」
「この試算表、なんか数字が微妙にズレてるんだよね。計算式は合ってるんだけど、元データの方が……」
お姉様がスプレッドシートの元データを遡っていきます。驚くべき速度でした。六年間の実務で培われたExcel操作が、まるで呼吸するように自然に指先から溢れています。
「あ、ここだ。この三箇所、小数点以下の数字が変わってる。先週のバージョンと照合すると……うん、変更履歴にも残ってないから、ファイル経由じゃなくて直接セルを触った人がいるのかも」
(変更履歴を無効化してから手動で入力したのに、先週のバックアップと照合された……)
わたくしの笑顔が、わずかに引きつります。
お姉様はそれに気づきません。
「まあ、マクロのバグと同じで、共有ファイルのあるあるだよね。念のためバックアップから復元しておくね。白峰さんの分もチェックしとく?」
「あ、大丈夫ですぅ! 先輩って本当にすごいですねぇ。こんな細かいズレ、私なら絶対気づかない……」
「いやいや、前の会社でExcelと添い遂げるレベルで向き合ってたからね。人間、六年もやれば嫌でも鍛えられるよ」
お姉様は笑っています。あの、くたびれた、でもどこか温かい笑顔。
わたくしへの疑いは、かけらもありません。
§ § §
帰りの電車の中。
わたくしは窓に額をつけて、流れる夜景を見つめていました。
二つの罠。どちらも瞬殺されました。
ただのミスとして処理され、わたくしの関与を疑う者はいません。それは計画通り。
だが、そもそも罠として機能すらしなかったことが問題でした。
お姉様の実務能力が、前世よりも強化されています。
六年間のブラック企業での酷使が、逆に彼女の処理速度と正確性を極限まで研ぎ澄ませてしまいました。
あの頃のカレンシュお姉様は、宮廷の政務で鍛えられました。今の先輩は、あの会社の、終電帰りの地獄で鍛えられました。
入り口は違う。でも到達点は同じ――いや、むしろ現代のデジタル環境に最適化された分、今の方が厄介です。
(いいわ。データ改竄程度で落ちるなら、お姉様じゃない)
わたくしは手帳を開き、今日の記録を書き込みました。
『罠2 失敗。先輩は相変わらず完璧。次はもっと大きな罠が必要。先輩を「ミス」ではなく「状況」で追い詰める。人の罠ではなく、環境を操作する。先輩がいくら優秀でも対応できない事態を作り出す』
ペンを止めて、前のページをめくりました。
一番最初のページ。二年前、記憶が覚醒した日に書いた一行。
『今度こそ、お姉様を私だけのものにする』
わたくしは手帳を胸に抱いて、目を閉じました。
§ § §
月曜日の朝。出勤して席につくと、すでに朝倉座長からメールが届いていた。
件名:【至急】今週水曜・海外政府高官の来日協議について
開いた瞬間、コーヒーを吹きそうになった。
「参加国」の欄に、三カ国の名前が並んでいる。東南アジアの主要貿易パートナー。経済特区の実現には、この三カ国との合意が絶対条件だった。
そして「本会議における日本側説明担当」の欄に、私の名前。如月奈々。物流セクション担当として、この会議の日本側の顔になるということだ。
うわ、マジですか!? プロジェクトに入ってまだ日も浅いのに!!
ううん、それだけ認めてくれている、ということだ。嬉しい。だけど、同時にプレッシャーがのしかかる。
「本会議における通訳」の欄には、外務省の専属通訳官の名前。前の会議でも通訳をしてくれた、ベテランの方だ。
「議題」の欄を読み進める。関税免除の範囲、投資に関する二国間協定の修正案、物流インフラの共同整備。どれも超重要案件。一つ間違えれば、プロジェクト全体が白紙に戻りかねない。
(水曜……あと二日。準備しなきゃ)
すぐに資料の作成に取りかかった。
§ § §
隣の席で、わたくしは自分の画面を見つめながら、微笑んでいました。
データ改竄は通じなかった。Excelのトラップも通じなかった。
なら、次はもっと根本的なところを攻めます。
お姉様の実務能力は完璧です。データ上の罠では勝てない。
だが、「人」はどうでしょう。
わたくしは瞳を閉じ、お姉様を思います。
ああ、カレンシュお姉様。もうすぐ……もうすぐですよ。
口角が僅かに釣り上がるのを感じながら、わたくしはただお姉様のことだけを思い続けるのです。




