36 キリル文字の罠
「白峰さん?」
先輩に声をかけられてハッとしました。
いつの間にか、先輩の弁当をじっと見つめたまま固まっていました。
「あ、ごめんなさいぃ。だし巻き卵が美味しそうで、つい見とれちゃいましたぁ」
「あはは、あげようか? エリオット……あ、いや、彼氏が毎朝作ってくれるんだ」
「いいんですかぁ? やった!」
差し出された卵焼きを、ありがたく受け取りました。口に入れます。
……美味しい。悔しいですが、美味しい。あの男の手作りですか。
§ § §
午前中の会議が終わって、昼休みになりました。
わたくしは奈々先輩と一緒にお昼です。
並んで食堂に向かいながら、わたくしはさりげなく話を振りました。
「先輩、物流セクションの進捗データ、すごい量ですよねぇ。整理、大変じゃないですかぁ?」
「ああ、あれね。確かに量は多いけど、マクロ組んだから大丈夫。前の会社で鍛えられたスキルが活きてるよ」
「さすが先輩ですぅ。私、マクロ苦手で……。あとでファイルの構成、教えてもらえますかぁ?」
「もちろん! 午後の空き時間に見せるね」
先輩は――お姉様は疑いもしません。後輩が業務の勉強をしたがっている、としか思っていません。
ファイルの構成。マクロのロジック。データの保存場所。アクセス権限の階層。
わたくしが知りたいのは、そのすべてでした。
(ありがとうございます、優しい先輩。カレンシュお姉様。あなたはいつも、自分から鍵を渡してくれる)
食堂のカレーを食べながら、わたくしは計画の第一段階を確認しました。
まず、先輩の信頼を完全に得る。次に、彼女のデータにアクセスする。そして――小さなエラーを仕込む。気づかれないほど些細な、でも致命的になりうるエラーを。
積み上げていくのです。少しずつ、少しずつ。
先輩が躓くたびに、隣で「大丈夫ですかぁ?」と手を差し伸べます。
そして最後に、全てが崩壊した瞬間――ボロボロになった先輩の手を握って、こう囁くのです。
「私がいますよ、先輩。もう大丈夫」
今度こそ。今度こそ、お姉様はわたくしだけに縋ってくださる。
§ § §
「白峰さん、カレーおかわりする?」
「しますぅ!」
にこ、と笑いました。
我ながら完璧な笑顔だったと思います。
§ § §
異変が起きたのは、木曜日の午後だった。
物流セクションの週次レポートを作成していた時、Excelのマクロが突然止まった。
画面にエラーメッセージが表示される。「実行時エラー'1004': アプリケーション定義またはオブジェクト定義のエラーです」。
(あれ? 昨日まで普通に動いてたのに)
マクロのコードを開いた。VBAのエディタ画面をスクロールしていく。
変数の型宣言、ループ処理、参照先のセル範囲。一行ずつ追っていくと――
(ここだ)
見つけた。
参照先のシート名が、一文字だけ変わっている。「Sheet3」が「Sheеt3」になっている。Unicodeの全角「е」キリル文字のイー。見た目はほぼ同じだが、Excelにとっては別物だ。
(打ち間違い……? いや、私がこの文字を打つわけがない。日本語入力でキリル文字なんて出ない)
一瞬だけ、背中が冷たくなった。
でもすぐに、頭を振った。
共有フォルダのファイルだ。誰かが別のPCで開いた時に、文字コードの問題で化けたのかもしれない。前の会社でもたまにあった。UTF-8とShift-JISの混在問題。IT部門が国際化対応をサボると、だいたいこういうことが起きる。
修正は一秒で終わった。「е」を「e」に直して、マクロを再実行。問題なく動く。
「……よし」
何事もなかったかのように、レポートの作成を再開した。
§ § §
その時。
わたくしは、先輩の三つ隣の席で、自分の画面を見つめていました。
(……直した)
一秒。たった一秒で。
わたくしが仕掛けたのは、ただのUnicodeの置換でした。キリル文字の「е」とラテン文字の「e」は、画面上では見分けがつかない。普通の人間なら気づかない。気づいたとしても、原因を特定するのに数時間はかかります。
なのに先輩は、マクロのコードをスクロールして一秒で見つけました。
(エクセルの構文を、一行ずつ目視で追って、Unicode違いの一文字を見抜いた?)
前世のカレンシュお姉様は、国家財政の帳簿を一人で管理していました。何百ページもの数字の山から、一銭の誤差も見逃さなかった。あの異常な精度が、現代のExcel操作にそのまま転写されています。
わたくしの指が、デスクの下で小さく震えました。
(大丈夫。これは想定内。最初から引っかかるとは思っていない。まだ序盤。もっと巧妙な罠を仕掛ければいい)
自分にそう言い聞かせます。
だが、胸の奥で、古い記憶が疼きました。
――お姉様は、いつもそうだった。
宮廷で仕掛けたあらゆる策略を、カレンシュお姉様は涼しい顔で切り抜けました。王宮の帳簿に仕込んだ不正も、外交文書に紛れ込ませた偽情報も、全て彼女の完璧な実務能力の前に無力でした。
結局、あの時も――枢機卿が力ずくで冤罪をでっち上げるしかなかった。「正攻法」では、カレンシュお姉様には勝てなかった。
(でも今回は違う。今回は枢機卿なんか必要ない。わたくし一人で、全てを完遂する)




