35 聖女フィオレンティーナ
会議が終わり、廊下に出た。
白峰さんと並んで歩きながら、ランチの場所を教えてあげようとした時、ふと気づいた。
すれ違う男性職員たちが、何人も白峰さんの方を振り返っている。
霞が関の廊下で、キャリア官僚たちが女性を振り返る。そんな光景、着任してから一度も見たことがなかった。
(すごいな、白峰さん。着任初日でこの人気っぷり)
少し感心しながらスマホを取り出し、エリオットにメッセージを打った。
『前の会社にいた後輩の白峰さんがチームに来たよ! 知ってる人がいてちょっと安心した』
五秒後に返信。
『あの時、黒田の不正を告発した女か。念のため千里眼で視たが、特に脅威は感知しない。ただの無害な一般人だ』
(そりゃそうだよね)
普通の女の子だもの。あの大魔法使いのお墨付きなら、なおさら安心だ。
さっきの悪寒は、やっぱりただの寝不足と環境の変化のせいだったんだろう。
『帰宅したら話そう。今日の弁当にはだし巻きを三個入れた』
だし巻き三個で話題をすり替えるな。
でも、口元が自然と緩んだ。
廊下の窓から霞が関の空を見上げる。今日も青くて、広い。
知っている顔が増えて、弁当にはだし巻きが三個。
大丈夫。きっと大丈夫。
§ § §
わたくし、白峰サヤカの一日は、祈りから始まります。
朝五時。目覚ましが鳴る前に、瞼が開きました。
白いシーツの上で、天井を見つめます。高級マンションの天井。実家が用意した、霞が関まで徒歩十分の部屋。家具も家電も全て最新で、冷蔵庫には作り置きの惣菜がストックされています。
何不自由ない暮らし。
何不自由ない、箱庭。
ベッドから降り、洗面台の前に立ちました。
鏡の中に、栗色のゆるいウェーブ。大きな瞳。愛嬌のある丸い頬。誰からも好かれる「ゆるふわ後輩」の顔。
「……おはようございます、お姉様」
鏡に向かって、そう呟きました。
声は甘く、柔らかく、完璧に制御されていました。
洗面台の引き出しを開けます。化粧品の奥に、一冊の手帳が隠してありました。
表紙は何の変哲もない白い革。開くと、びっしりと文字が並んでいます。
奈々先輩の行動記録。出勤時間、退勤時間、昼食の内容、会議での発言、誰と話したか、表情の変化。前の会社の時から――二年以上にわたる記録です。
最新のページを開きました。
昨日の日付の横に、丁寧な文字で書かれています。
『先輩は今日も朝倉座長に褒められていた。物流セクションの資料が「完璧」だと。嬉しそうに頬を染めていた。可愛い。とても可愛い。でも駄目。褒められて嬉しそうにしている先輩は、駄目。幸せそうな先輩には、価値がない』
手帳を閉じました。
§ § §
わたくし、白峰サヤカの前世の名を、聖女フィオレンティーナといいます。
記憶が戻ったのは、二年前のことです。あの中小企業のオフィスフロアで、先輩の如月奈々が「白峰さん、ここのマクロ、こうすると楽だよ」と笑いながらExcelの使い方を教えてくださった時でした。
先輩の手が、キーボードの上でわたくしの手に触れました。
その瞬間、世界が反転しました。
宮廷の回廊。ステンドグラスから差し込む光。金色の髪。わたくしのことを「妹」と呼んで、唯一対等に接してくださった美しいお姉様。
――カレンシュお姉様。
全てを思い出しました。聖女として利用された孤独な少女時代のことも。枢機卿に唆されてカレンシュを冤罪に嵌めたことも。処刑台の上で、最後まで毅然と微笑んでいたお姉様の横顔のことも。
あの微笑みが、いまだに許せません。
なぜ泣いてくださらなかったのか。なぜ「助けて」と叫んでくださらなかったのか。
なぜ、最後までわたくしを必要としてくださらなかったのか。
§ § §
出勤の支度をしながら、今日の計画を頭の中で組み立てます。
WAGEプロジェクトに潜り込むのは簡単でした。白峰家――現世での実家は、政財界に食い込んだ名家。経産省の出向ポストなど、父に一本電話するだけで用意できました。
もっとも父は、娘が「ゆるふわOLごっこ」を辞めて本業に戻ると思い込んでいます。まさか自分の娘が、前世からの執着を完遂するために国家権力を私物化しているとは、夢にも思っていないでしょう。
思わず、くすりと笑いました。
鏡の中のゆるふわ後輩が、一瞬だけ別の顔になりました。
§ § §
合同庁舎。八階。
会議室のドアを開けると、もう奈々先輩が席についていらっしゃいました。
「白峰さん、おはよう! 今日も早いね」
先輩が笑います。あの笑顔。くたびれた限界OLの顔なのに、瞳の奥に前世の煌めきが残っています。あの処刑台の毅然とした光と同じもの。
「おはようございますぅ、先輩! 今日のお弁当、美味しそう」
先輩の弁当箱を覗き込みます。だし巻き卵に唐揚げ。上手い。素人の手作りとは思えない出来です。
(あの男が作ったのね)
筆頭宮廷魔術師。前世でわたくしの「認知阻害」すら突き通しかねなかった、あの氷の美貌の化け物。
今の彼は、弁当を作る主夫に成り下がっています。でも油断はしません。千里眼は常にこちらを見ているはずです。
――見えていない、けれど。
わたくしの唇が、ほんの一瞬だけ弧を描きました。
神の力で編んだ認知阻害の結界は完璧です。エリオットの千里眼に映る「白峰サヤカ」は、魔力を持たない無害な一般人。どれだけ精密にスキャンしても、わたくしの内側に眠る聖女の呪詛は検知されません。
魔法使いの探知は「魔素」を手がかりにします。でも聖女の力は「神の奇跡」――そもそも検出の原理が違うのです。
かつて宮廷で彼の目を欺いたのと同じ方法で、現代でも――




