32 前世の王宮を重ねて
出勤前。洗面台で髪をまとめながら、リビングのテーブルに広げた資料を横目で確認する。
「今日から本格始動なんだよね、このプロジェクト」
独り言のつもりだったけど、ソファでコーヒーを飲んでいたエリオットが律儀に反応した。
「国家的な計画なのだな。規模の大きさが窺える」
「うん、国際経済特区……WAGEプロジェクト、っていうんだけどね」
「WAGE……?」
「正式には広域アジア・経済連携ゲートウェイ構想。英語の『Wide Asian Gateway for Economy』の頭文字をとってWAGEっていうんだけどね。お役所って、こういう無駄にカッコつけた略称好きじゃない?」
「ふむ……。言葉遊びの一種か」
「まあね。簡単に言うと、日本のどこかに特別な貿易エリアを作って、海外の企業や投資を呼び込もうって計画。関税とか規制を特別に緩くして、そこだけ国際ビジネスの拠点にするの」
鏡越しにエリオットを見ると、真剣な顔で聞いている。このプロジェクトを理解しようとしている。あっちの世界にも似たような計画はあったし、多分普通に理解しちゃうんだろうな。
「で、ただ場所を作るだけじゃダメで、法律の整備とか、物流のインフラとか、海外政府との交渉とか、全部を同時に進めなきゃいけない。だから各省庁と民間から精鋭を集めて、合同チームでやるの」
「国家の経済構造そのものを設計し直す……ということか」
「まあ、そこまで大げさじゃないけど。でも、うまくいけば数千億円規模の経済効果が出る、って試算されてる」
エリオットが何かを考え込むような沈黙をしたあと、静かに言った。
「まさに、前世の君が得意としていた領域だな」
ドキッとした。
国家の財政を管理し、多国間の交渉を捌き、物流と商業の均衡を保つ。確かに、前世のカレンシュがやっていたことと、驚くほど重なっている。
「……まあね。今回は処刑されないといいんだけど」
「させない」
即答だった。声のトーンが一段低い。冗談で言ったのに、この男は本気で答える。
「冗談だってば。行ってきます」
「行ってらっしゃい。……気をつけて」
玄関で靴を履きながら、ふと振り返った。
エリオットがソファから微動だにせず、蒼い瞳でこちらを見ていた。
あの目は、千里眼モードの目だ。たぶん今日一日中、私の背中を見ているつもりなんだろう。
過保護すぎない? とは思うけど、正直ちょっとだけ安心する自分がいて、それが少し悔しい。
§ § §
池袋駅。丸ノ内線のホームに立つ。
前の会社に通っていた時は、ここから銀座で降りていた。毎朝満員の車両に押し込まれ、終電で同じ車両に押し込まれる日々。あの地獄の通勤から解放されただけでも、転職した甲斐がある。
今日の行き先は、その一つ先。霞ヶ関。
地下鉄のアナウンスが「かすみがせき」と告げただけで、周りの空気が変わるのがわかる。乗客の背筋が伸び、表情が引き締まる。逆に観光客は絶対いない。この駅に用事があるのは、国を動かしている人か、国に動かされている人だけだ。
改札を出ると、四月の風が吹き抜けた。
目の前に広がるのは、池袋の雑多な街並みとは全く違う景色だった。幅の広い歩道。整然と並ぶケヤキの街路樹。巨大なコンクリートの合同庁舎が、その向こうに並んでいる。空が広い。周りに高い商業ビルが少ないからだろう。その代わりに官庁の建物が、重たく、静かに、圧倒的な存在感で並んでいる。
歩きながら、前世の記憶がざわりと蠢いた。
王宮の中庭に似ている、と思った。ケヤキの並木道は宮廷の回廊に、合同庁舎の列は王宮の各棟に。そして、足早に歩く官僚たちの背中は、あの頃の宮廷役人たちと同じ空気を纏っている。
あの頃は父の後ろに隠れていれば済んだけど、今回は一人だ。
でも、後ろには千里眼の過保護な大魔法使いがいるけどね。
受付で入館証を受け取り、エレベーターで八階へ。
会議室のドアの前で、一度深呼吸した。
(大丈夫。私は前世で三カ国の外交文書を書き、王宮の予算を一人で管理し、貴族間の謀略を八面六臂で捌いていた女だ)
……それ、結局全部報われずに処刑されたんですけどね。
さて、と気合をいれてドアを開ける。
――と、そこは。




