29 覗けない結界
浴室に入ると、いつも通りの極上の魔法風呂がそこにあった。
湯面がほのかに碧く発光している。薬草のような、でもどこかフローラルな香り。相変わらず犯罪級の快適さだ。
ただ、今夜は一つだけ違った。
浴室全体が薄い銀色の光のヴェールで覆われている。壁にも天井にも、半透明の膜が張り巡らされていた。
「エリオット」
「なんだ」
ドア越しに、低い声が返ってきた。ちゃんと声で返事してくれている。約束通りだ。この男、ルールさえ決めれば律儀に守る。
「結界、ちゃんと見えないの?」
「ああ。白い壁しか認識できない」
「……そう」
安心した。
安心した途端に、変な感情が湧いてきた。
この男は結局、自分の魔法スキル(千里眼)を封印してまで、私のプライバシーを守る仕組みを考えてくれたのだ。
魔法の力と魔法の行使に何よりの誇りを抱いている大魔法使いが。
護衛はしたい。でも覗くのは駄目。だから、お互いが納得できる妥協点を技術的に構築した。
(……変わったのかな。それとも、前からこうだったのかな)
その疑問は、お湯の温かさに溶かされて、答えが出ないまま消えた。
まあいい。今は考えるな。考えたら負けだ。何に負けるのかはわからないが、負けるような気がする。
§ § §
有給休暇、五日目。
土曜日。
朝からウィィィィンと元気に稼働しているお掃除ロボットを避けながら、私は大きく伸びをした。
「奈々。るんすけの進行方向を塞がないであげてくれ」
真顔でソファから声をかけてきたエリオットに、私は思わず首を傾げた。
それはそれとして、現実は残酷だ。冷蔵庫の中身は、なぜか昨日まであった食材が底をつき、がらんと空っぽになっていた。
「エリオット。スーパー行ってくるけど、お昼何がいい?」
「スーパー……。先日のコンビニではなく?」
「そう。食材ちゃんと揃えたいから」
「ふむ……察するにこの世界の市場か……」
ソファに座り、少年漫画(去年買ったジャンプ)を真剣な顔で読み込んでいたエリオットが顔を上げた。
「ならば私も行こう。護衛として」
「護衛って……スーパーよ?」
「距離の問題ではない。スーパーとは恐らく、食料と日用品の集積地なのだろう。盗賊や暴漢の格好の標的だ。君のようなか弱き女性が一人で向かうなど、言語道断だ」
いや、さすがにそこまでこの国の治安悪くないよ!?
元の王国は、確かにそういう一面もあったけど。
警邏騎士たちが、結構張り子の虎だったんだよね。
と、足元で、るんすけが「ピロッ」と鳴った。
「ほら、るんすけも同意している」
「いや、あんたまで味方すんな!!」
るんすけに八つ当たりしても仕方ないのだが、エリオットの発言に相槌を打つように鳴くのはやめてほしい。こいつら何年一緒にいるんだ。息合いすぎでしょ。
……まあ、一人にして帰ったら何をやらかすかわからないし。連れて行った方がましか。
「わかった。ただし絶対に変なことしないでね。魔法も使わない。約束よ」
「承知した。現代の法には従おう」
§ § §
アパートを出て住宅街を歩き始める。
三月の空は薄曇り。時折、冷たい風が吹き抜ける。
ちらりとエリオットの横顔を窺う。
相変わらず涼やかな表情。でもよく見ると、こめかみに、うっすらと汗が滲んでいた。
……やっぱり、無理してるじゃん。
§ § §
最寄りのスーパーマーケットに到着した。
自動ドアが開いた瞬間、エリオットの目が見開かれた。
「——この空間は」
「スーパー。食べ物を買う場所」
「これほどの食糧が一箇所に……コンビニにも驚いたが……これほどの規模の市場は王都でも、見たことがない」
「日本全国どこにでもあるよ。カート押して。あと、商品に魔法かけないで」
エリオットは巨大なショッピングカートを押しながら、目を皿のようにして店内を観察していた。
鮮魚コーナーで氷の上に並べられた魚を見て「保存の氷結術が精密だ」と感心し(ただの氷です)、精肉コーナーのパック詰めを見て「この透明な結界で鮮度を維持しているのか」と唸り(ラップです)、バーコードスキャナーの赤い光を見て「コンビニでも見た照合術式か」と頷いた(バーコードです)。
全部間違っているが、全部それっぽく聞こえるのが腹立たしい。
ふと、カートを押す腕から伝わる体温が、少しだけ低いことに気がついた。
手が冷たい。外に出ただけで、こんなに消耗しているんだ。
でも、彼はそんなことをおくびにも出さない。高級スーツのまま、忠実な騎士のような顔で周囲を警戒し続けている。
……なんで、こんなにボロボロになりながら、つまらない買い物についてくるのよ、この人は。
§ § §
帰り道。
スーパーの袋を持ちながら並んで歩く。
午後の日差しが、薄曇りの隙間から時折こぼれていた。
エリオットの顔色があからさまに悪い。
途中の公園に寄った。
ベンチに座って、スーパーで買ったものを確認していると、エリオットがぽつりと言った。
「……この国の市場は、規模が違う」
「そう? 普通だよ、日本では」
「普通、か」
エリオットはしばらく黙って、公園の木々を見ていた。
さっきまで白かった彼の顔に、ほんのわずかだけ血色が戻っている。外を歩いて、少し慣れてきたのかもしれない。
「……また来よう」
私が言うと、隣で、彼がわずかに頬を緩めた気がした。




