26 洗剤一本事件
午後、近所のスーパーへ食材を買いに出かけて、一時間ほどで戻ってきた。
ドアを開けた瞬間、異様な光景が広がっていた。
泡。
白い、もこもこした、大量の泡が、キッチンから廊下にかけて溢れ出している。
「なっ……えっ……!?」
足元がぬるりと滑った。スニーカーの底が泡に乗って制御を失う。かろうじて壁に手をついて転倒を免れたが、エコバッグが泡を吸って悲惨なことになった。
「エリオット!?」
泡の海をかき分けてキッチンに突入する。
そこには、全身をびしょ濡れにしたエリオットが、洗濯機の前で呆然と立ち尽くしていた。
高級スーツ(魔法製)が水浸し。銀色の髪が額に張りついて、顔の造形がいつもよりダイレクトに見える。顔がいい。こんな状況でもイライラするほど顔がいい。そして周囲三メートルが、もこもこの白い泡で覆われている。
さながら「泡の宮殿」だ。六畳一間の王宮スイートルームが、今度は泡の王国にジョブチェンジしている。
「……何があったの」
「洗濯を試みた」
エリオットは、目の焦点が合っていない。戦場から帰還した兵士のような虚ろな目をしていた。
「この洗濯機に衣類を投入し、洗剤を注入した。しかし、適切な量の表記が読解できなかったため、やや多めに投入した」
「やや多めってどのくらい」
「一本」
一瞬、脳が停止した。
「一本、まるごと!?」
「液体の量が足りないと効果が薄いと判断した。魔法の触媒は多ければ多いほど効果が強くなるのが常識だ」
「洗剤は触媒じゃない!! 一回分はキャップ一杯だよ!?」
三十回分の洗剤を一度に投入したのだ。
そりゃ泡まみれになる。
「説明が読めないのだから仕方がないだろう。ラベルの文字が全て暗号に見える」
「暗号じゃなくて日本語!! あんた漫画は読めるようになったのに洗剤は読めないの!?」
「漫画は絵があるから文脈が推察できる。この容器には絵がない」
「……一理ある」
一理あるがそれで一本丸ごと入れるのは論理の飛躍がすぎる。
洗濯機は泡を吐き出しながら悲痛な回転音を立てていた。明らかに断末魔の叫びだ。
「この洗濯機は制御が不安定だ。何度停止ボタンを押しても反応しない」
「脱水モードに入ってるから途中で止まらないの!!」
「……そうか。詠唱中ということなのだな」
私は泡の海を膝までかき分けて洗濯機に辿り着き、電源を落とした。ぷすん、と力なく回転が止まる。享年八年。うちに来てから五年。長い間お疲れ様でした。
振り返る。
泡まみれのキッチンに、泡まみれの大魔法使いが立っている。肩に泡が乗っている。顔にも泡がついている。絶世の美貌に泡の髭が生えている。サンタクロースか。
「…………」
笑っちゃだめだ。笑っちゃだめだ。笑ったらこの人傷つく。
「ぶっ」
ダメだった。
「うぶっ……あはは……あはははは!」
堪えきれなかった。
泡の王国と、泡サンタのエリオット。シュールの極みだ。前世で「絶対零度」と恐れられた男が、泡まみれで途方に暮れている。これを笑わずにいられる人間がいたら、そいつの方が怖い。
「何がおかしい。私は真剣に——」
「いやぁ、ごめん、ごめんって……あはは、泡、泡ついてる、あごに」
指差すと、エリオットが自分の顎を触り、手のひらに泡がべったりとつくのを呆然と見つめた。
「……戦場で撤退を命じられた魔導師のような気分だ」
「洗濯で撤退する魔導師いる!?」
笑いすぎて涙が出た。
なんだか久しぶりに、何でもない理由で笑った気がした。
泡の海は、想像以上に手強かった。
まず排水。排水口が泡で完全に塞がっていた。
次に拭き取り。タオルを何枚使っても泡が消えない。洗剤三十回分の泡は伊達じゃなかった。
最終的にバケツで泡をすくい、浴室に流すという原始的な戦術を取った。
「エリオット、そっちのバケツ持ってきて」
「これか」
「それ、風呂桶。もっと大きいやつ。流しの下にあるでしょ」
二人でバケツリレーをしながら泡を片付ける。
エリオットは魔法を使わないという約束を律儀に守り、人力でせっせと泡を運んでいた。最強の大魔法使いが、バケツを両手で抱えて浴室とキッチンを往復している。シュールにもほどがある。
「こういう時だけは魔法使いたくならないの」
「約束だからな」
「……融通きかないのは昔からか」
「融通がきかないのではない。約束を守っているだけだ」
この男は、嘘は下手だが約束は守る。バレる嘘はつくが、交わした約束は絶対に破らない。前世の宮廷でもこうだった。政治家には向いていない。魔法使いでよかったよね。




