25 魔法なしの生活
本物のフライパンに、本物の油を引く。
本物の卵を、本物のボウルに割り入れる。
パチン、と殻が割れる音が、エアーとは全く違う、生々しい音だった。
出汁を合わせる手つきに、もう迷いはない。
一万回の素振りで刻み込まれた動きが、寸分の狂いなく再生されていく。
フライパンに卵液を流し入れる。ジュウ、と音がして、甘い香りが広がった。
菜箸で手前に巻く。もう一度流し入れる。巻く。流す。巻く。
完璧ではないが、確かな手つきだった。
五時間かかっていたという不器用なあの作業が、一万回の素振りによって、魔法のように――いや、魔法ではなくこの男自身の努力で、たった十分へと短縮されている。
出来上がっただし巻き卵が、まな板の上に乗せられた。
包丁で切り分ける。断面が見えた。
なお、包丁の持ち方だけは異常に様になっている。前世で何を斬っていたのかは、あえて聞かないでおこう。
「……きれい」
思わず声が出た。
昨日のものとは段違いだった。巻きは均一で、断面は花のように層を成し、じんわりと出汁が滲んでいる。
「味見を」
エリオットが皿を差し出した。
箸で一切れつまみ、口に運ぶ。
口の中に、出汁の優しい旨味が広がった。
甘すぎず、塩辛すぎず、卵の風味がしっかりと活きている。昨日の「〇・三ミリリットル過多」は完璧に修正されていた。
おいしい。
普通に、ちゃんと、おいしい。
「……これ、魔法じゃないの?」
聞いた。念のため。
「あえて、君の世界の技術で作った」
エリオットが答えた。
その声は静かで、いつもの無感情なトーンだった。
でも、左手がエプロンの裾を握りしめていることに、私は気づいていた。
「……おいしい」
二度目の「おいしい」。
でも、昨日のそれとは重みが全然違った。
エリオットの表情は動かなかった。
ポーカーフェイス。鉄壁。無表情。
でも、握りしめていたエプロンの裾が、ほんの少しだけ震えていた。
§ § §
夕食は、だし巻き卵と、白ご飯と、味噌汁だった。
味噌汁は魔法製だ。さすがに全メニューを一日でマスターするのは無理だったらしい。
つまり、この味噌汁一杯に国家予算レベルの演算と寿命が注ぎ込まれている。贅沢すぎて胃がもたれる。精神的に。
「次は味噌汁もか」
「当然だ。出汁の取り方から習得する」
世界最強の大魔法使いが、煮干しの頭とはらわたを取る練習を始める未来が、目に浮かんだ。
エアー煮干し。……ちょっとシュールすぎない?
「あのさ、エリオット」
「ん?」
「次の仕事が始まっても、弁当に入れてくれる?」
エリオットの箸が止まった。
「……毎日入れる」
「毎日じゃなくていいよ。飽きるから」
「では、二日に一回」
「それでいい」
静かな夕食だった。
魔法で錬成された完璧な味噌汁と、一万回の素振りで作り上げた不完全なだし巻き卵。
どちらが美味しいかと聞かれたら、私は迷わず後者を選ぶ。
理由は、たぶん、ううん、言わなくても心はわかっている。
§ § §
有給休暇、三日目。
異変に気づいたのは、朝の業務連絡キスの時だった。
いつも通り三秒(タイマー計測済み)。
唇を離す。
目を開けると、エリオットの顔色が悪い。「少し悪い」ではない。「これ生きてる?」レベルだ。
肌の白さが一段階アップグレードされている。もとから色白なのが更に白くなり、もはや透けるのではないかという域に達しつつある。
「あんた、顔色悪くない?」
「問題ない」
「嘘でしょ。昨夜も魔法使いすぎたんじゃないの。回復魔法に結界に……全部、魔力使ってるんでしょ」
エリオットは一瞬だけ沈黙してから、いつもの平然顔を作った。
しかし私は最近わかってきた。この男の嘘リスト。私はそれを既に脳内データベースに蓄積している。
「問題ない」と「心配には及ばない」は二大嘘フレーズ。「些細なことだ」が三位。
体調が悪ければ悪いほど「問題ない」の声に力が入る。いや、わかりやすすぎるでしょ?
「魔力は効率的に運用している。心配には及ばない」
二大フレーズの二つ目まで出た。重症だよ、これ!
今朝はもう一つ、気づいたことがある。
いつもは完璧に輝いている魔法照明が、今朝はほんの少し暗い。天蓋ベッドの金糸の装飾も心なしかくすんでいる。部屋全体のゴージャス度がワンランク落ちているのだ。
魔力が、足りていない。
この世界に魔素がないから、彼の魔力源は全て朝のキスだけ。
その限られた魔力を、毎晩の料理と風呂と結界と回復魔法に惜しげもなく注ぎ込んでいる。
「エリオット」
「なんだ」
「今日は魔法なるべく使わないで。ご飯もお風呂も、普通でいいから」
「普通とは」
「魔法なし。普通に料理して、普通にお湯沸かして、普通に生活して」
エリオットの目が、わずかに見開かれた。
「魔法なしの生活」という概念自体が、この男のOSに存在しないのかもしれない。
「……しかし、それでは君の疲労回復が——」
「私の疲労より、あんたの命の方が大事でしょ」
言ってから、盛大にしまったと思った。
「いや、大事っていうか、あんたが死んだら家事する人いなくなるし。ご飯作る人いないし。るんすけが悲しむし」
「るんすけが」
「そう。るんすけが」
るんすけを盾にした。
「では、今日は魔法を使わずに家事を試みよう」
「できるの?」
「やったことがないだけだ。原理は理解している」
自信満々だ。
しかしこの男の「原理は理解している」ほど信用ならない言葉はない。自動ドアの原理も理解していなかった男だ。バーコードを魔方陣だと思っていた男だ。嫌な予感しかない。




