24 一万回の素振り
(……ああ、これだよ、エリオット)
この「完璧じゃなさ」が、なんでこんなに温かいんだろう。
世界最強の大魔法使いが、卵を手で割って、菜箸で必死に巻いて、少し焦がした。
その事実だけで、なぜか胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……おいしい」
「嘘をつくな。出汁が〇・三ミリリットル過多だ。塩分濃度も計算より〇・〇二パーセント低い。次は修正する」
「嘘じゃないよ。おいしいよ」
「……そうか」
エリオットは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、ポーカーフェイスの奥で何かが緩んだような表情を見せた。
それは笑顔と呼ぶにはあまりにも微かで、知らない人が見たら「氷の殺し屋が標的を見定めた」としか思えないだろう。
でも私にはわかる。今、この男は嬉しいのだ。
§ § §
有給休暇、二日目。
朝食の後、私はソファに寝転がって、るんすけが掃除する音を聞いていた。
平和だ。うっかりすると溶けてしまいそうなほど平和な日常が、確かにここにある。
ふと思った。
こいつ、仕事はどうするんだろう。住民票も戸籍もエリオットが魔法でなんとかしたらしいけど、職業:無職の異世界人がこの六畳一間に居座り続けるのか。
……ヒモじゃん。完全にヒモじゃん。
魔法で豪華ディナーを作り、魔法で部屋を快適にして、あとは一日中何してるんだろうこの男。
まあ今は私が仕事してるし、食費も光熱費も大したことないし……いいか。
いいのか? いいのか、これで?
自分から出歩くこともないみたいだし、ヒモでニート。
ヒキニートならぬヒモニート!?
などと相当に失礼なことを考えていたらキッチンから、規則的な音が聞こえてきた。
パチ。パチ。パチ。パチ。
何の音だろうと思って覗きに行くと、エリオットが卵を割る所作をしている。
空中に浮かぶ卵がパチンと割れるのが見えた。一個。また一個。そしてまた一個。
「何してんの」
「練習だ」
「練習?」
「本日中に一万回作り、最適な工程を身体に記憶させる」
一万回。
「だからって、エアーだし巻きを一万回もやるの?」
「ああ、足りなければ二万回だ」
(……この人、本気だ)
何百年も魔法を極め続け、次元を超え、世界を書き換える力を持つ男が。
卵焼きの素振りを。一万回。
その横で、るんすけがエリオットの足元をくるくる回っていた。応援しているつもりなのか、ただ掃除しているだけなのかは不明だ。
「……うわぁ」
思わず呟いた私の声に、エリオットの耳の先がほんのりと赤くなった気がした。
――でもわかった。この完璧主義と無限の努力が、エリオットをあちらの世界で大魔法使いにしたんだ。
そして、今、その力が、明らかに間違った方向に使われている。
私はそんなエリオットに、思わずクスリと笑みを漏らしたのだった。
――だが私は知らなかった。
この先の七日間が、想像を絶する修羅場になると言うことを。
いやほんと、笑ってる場合じゃなかった。
§ § §
パチ。シュッ。パチ。シュッ。
エリオットのエアー調理は、朝から一度も止まっていない。
私はソファで本を読み、昼食にカップラーメンを食べ(エリオットが「私が作る」と言ったが「一万回終わるまでダメ」と制した)、昼寝をし、起きてもまだ続いていた。
しかも、よく見ると――空中に浮かぶ半透明な卵の幻影が、回を重ねるごとに精巧になっている。最初はぼんやりとした光の塊だったのに、今では卵の殻の質感や黄身の色まで再現されている。
その技術を他のことに使おうよ。例えば確定申告とか。あんた無申告だよね?
魔法を使わないと宣言したのに、結局イメトレに魔力を使っちゃってるのでは?
「ねえ、それ魔力使ってない?」
「幻影の投射に微量だけ使っているが、調理工程そのものには一切使用していない。これは筋肉と神経回路の記憶訓練だ」
「屁理屈じゃない?」
「合理的な判断だ」
――この男、詭弁の天才でもあるっぽいよ?
§ § §
午後六時。
「九千九百九十八回目、完了」
エリオットがそう呟いた。
額には薄っすらと汗が浮かんでいる。大魔法使いが卵焼きの素振りで汗をかいている。人類史上初の光景だと思う。宮廷魔術院の元部下とかが見たら、泣いちゃうと思うよ?
「……あと二回」
「うん」
九千九百九十九回目。
空中にだし巻き卵の幻影が完成する。巻きの形、焦げ目の位置、出汁の染み込み具合。昨日食べたあの「まあまあ」のだし巻きとは、明らかに別物の精度だった。
そして、一万回目。
エリオットの動きが変わった。
今までのぎこちない「練習」ではなく、流れるような一連の動作。卵を割り、出汁を合わせ、油を引き、流し入れ、巻く。幻影の中のだし巻き卵が、黄金色に輝いていた。
「……一万回目、完了」
静かな声だった。
達成感を噛みしめるわけでもなく、ただ事実を述べるだけの、いつもの鉄壁ポーカーフェイス。
「じゃあ、本番ね」
「ああ。計測を頼む。目標は十分だ」
冷蔵庫から、本物の卵を取り出した。
昨日は十個のパックだったのに、残りは二個。昨日の実践で八個使ったらしい。
「足りる?」
「二個でいい。もう、失敗はしない」




