23 手料理の練習宣言
帰り道、ふわりと三月の風が頬を撫でた。
六年間通い続けたビルを背にして、歩いた。怒りでも悲しみでもなく、ただ、静かな気持ちで。桜の蕾が膨らんでいる。もうすぐ春だ。
終わったのだ。本当に、終わったのだ。
アパートに戻ると、エリオットがキッチンで何かを煮ていた。るんすけが全力旋回で出迎えてくれる。
「どうだった」
「全部終わった。お咎めなし。有給が一週間もらえた」
エリオットは鍋のへらを動かしながら、小さく頷いた。
「そうか」
「……一週間、何しよう」
何気なく呟いたら、エリオットが振り返った。
蒼い瞳が、まっすぐに私を見た。
「決まっている」
「何が」
「献立だ」
一秒の迷いもなかった。
七日間。二十一食。おやつは別途。蒼い瞳が、静かに、でも確実に、輝いていた。
「七日間で、私が習得すべきレシピを全て制覇する。君は全て食べる。それが君の仕事だ」
言い切った。
私は一瞬だけ呆気に取られて、それから、笑った。
「……わかった。全部食べる。でもそれ以前にこの世界の常識を覚えてもらうからね!」
「――望むところだ!」
るんすけが、ピロリッ、と嬉しそうに鳴いた。
三月の窓から、春の風が流れ込んできた。
限界OL・如月奈々の、ほんの少しだけ穏やかな七日間が、始まろうとしていた。
§ § §
有給休暇、一日目。
朝九時。目覚まし時計は鳴らない。もうセットすらしていない。
ベッドの中で目を開けると、安眠の結界に包まれた部屋は今日も温かくて、窓から差し込む春の光が柔らかかった。
――幸せすぎて怖い。
六年間、毎朝五時半にアラームが鳴り、終電で帰宅し、泥のように眠り、また五時半にアラームが鳴る。その無限ループが日常だった人間にとって、「何もしなくていい朝」は異世界より異常な環境だ。
いや、そもそも異世界の住人と同居している時点で異常なんだけど。
しかも家賃は私持ちだし。世界最強の大魔法使いは無職のヒモだし。光熱費だけは微弱な魔法で踏み倒してるし。ある意味、最高効率の不正受給じゃない? これ。
業務連絡を済ませてから、私はエリオットに言った。
「お弁当や料理、これからは魔法なしで作って」
エリオットの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……理由を聞いてもいいか」
「魔力の節約」
私はきっぱり答えた。
「あんた、この前キッチンで消えかけてたじゃない。魔力の蓄えがない状態で、それでも毎日ご飯作って、お弁当作って、千里眼で見て……全部魔法でやってたら足りるわけないでしょ。お弁当くらい手で作れるはずだから、魔法禁止」
エリオットは沈黙した。
「……君は、私の消滅を」
「怖かったんだよ!!」
声が裏返った。言うつもりじゃなかった。でも出てしまった。
「怖かったから。それだけ。魔力節約して。以上」
エリオットはしばらく私の顔を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「……承知した。では朝食の準備にかかる」
その声が微かに震えていた気がしたが、聞こえなかったことにした。
洗顔を済ませ、リビングに出ると、キッチンからパチパチと油の爆ぜる音がしていた。
「朝食は十分後だ」
エプロン姿のエリオットが、フライパンの前に立っている。
銀色の長い髪を後ろで一つに結び、袖を肘までまくって。蒼い瞳が真剣にフライパンの中を凝視している。
この光景にもだいぶ慣れた。慣れたはずだ。
なのに、朝の逆光の中に立つこの男のシルエットが視界に入るたびに心臓が一瞬跳ねるのは、イケメンアレルギーの後遺症だと思いたい。
「……何を作ってるの」
「だし巻き卵だ」
だし巻き卵。
普通の、だし巻き卵。
空気中の分子を再構築した錬成料理でもなく。
「今朝は、一時間半かかった」
エリオットが真顔でそう宣言した。
一時間半? 朝ごはん作るのに?
「君が会社に持っていったあの弁当を作った際は、一食につき五時間を要したからな」
「……五時間!?」
思わず叫んでしまった。
夜中に起きて、五時間。私のためだけに。
「魔術で作るのは一瞬だが、その魔力を練り上げる時間がかかった」
(……バカだなぁ、本当に)
呆れと、それをはるかに上回る胸の奥の熱いものが、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
テーブルに座った私の前に、エリオットがだし巻き卵の乗った皿を置いた。
見た目は……まあ、及第点だ。少し焦げている。巻きがやや甘い。でも、ちゃんと「だし巻き卵」の形をしている。普通の人間が一生懸命作ったような、普通のだし巻き卵だ。
「……別に、無理しなくてもよかったのに」
箸を止めた。
「魔法を使わずとも、この想いを少しでも伝えたいのだ」
エリオットが言い淀んだ。
「それに……魔法では、足りない」
「何が足りないの」
「わからない。ただ何となく、そんな気がする」
黙って、だし巻き卵を一切れ口に運んだ。
味は、正直に言って、まあまあだった。
出汁の加減がほんの少しだけ多い。塩味が気持ち足りない。プロの寿司屋が出すそれには遠く及ばないし、魔法で錬成された完璧なディナーとは比べるまでもない。
――でも。




