22 懲戒解雇と特別休暇
布団の中は、静かだった。
エリオットは私から三十センチほどの距離を保って、仰向けで寝ていた。触れていない。完全に触れていない。これで魔力補給できるのか疑問だが、彼がそう言うのだから信じるしかない。
問題は、眠れないことだった。
目をつぶるたびに、さっきのことが蘇る。柔らかかった唇の感触。応えてきた瞬間の、体温。あの時の蒼い瞳。
やめろ。考えるな。
天井を見つめながら、今日あったことを順番に思い返してみた。無理やり別のことを考えようとして。
会社で六年分の地獄が終わった。
手を繋いで歩いた。
お姫様抱っこで公道を横断した。
佐藤さんが泣きながら電話をくれた。
「もう頑張らなくていい」と言われて泣いた。
鼻水でスーツを汚した。
エリオットが消えかけた。
キスをした。
……全然別のこと考えられなかった。
「眠れないのか」
真っ暗な天井に向かって、エリオットの声が静かに落ちてきた。
「眠れない」
「…………」
「……エリオットは?」
少し間があった。
「眠れない」
まったく同じ答えが返ってきた。
なんで。なんであなたも眠れないの。何を考えてるの。聞きたいような、絶対に聞けないような、不思議な気持ちで天井を見つめた。
「今日は、色々ありすぎた」
「そうだな」
エリオットも同意した。この男が素直に「そうだな」と言うのは珍しい。布団の中の闇の中で、この不器用な大魔法使いも、今日のことを頭の中でぐるぐると反芻しているのかもしれない。
しばらく、黙ったまま、天井を見ていた。
三十センチ。
この距離が、なぜか今夜だけは、途方もなく遠くて、途方もなく近かった。
「……エリオット」
「ん?」
「消えなくて、よかった」
返事が、少し遅かった。
「……ああ」
それだけだった。でも、その一言が、今夜は十分だった。
気づいたら、眠っていた。
§ § §
翌朝、土曜日。
目が覚めると、隣にエリオットはいなかった。
リビングから包丁の音がしていた。律儀だな、とぼんやり思う。
昨夜、同じ布団で眠ったはずなのに、起きたら三十センチの距離は消えていて、エリオットはもうキッチンにいた。何事もなかったように。いつも通りに。
それがなぜか少し、おかしかった。
スマートフォンを確認すると、会社の人事部から追加のメールが来ていた。昨夜の「明日、改めてお話を」の続きだ。時刻と場所の指定がある。午後二時、人事部の会議室。
着替えて、朝食を食べた。エリオットが黙って作った卵焼きは、今朝は少しだけ甘かった。
「行ってきます」
「気をつけて」
振り返らないまま、エリオットが言った。その横顔の耳が、気のせいかほんの少し赤かった。気のせいだと思いたい。
§ § §
人事部の会議室は、静かだった。
向かいに座った人事部長は、終始ぺこぺこしていた。隣には総務部長と、見知らぬ弁護士らしき人物が一人。
「昨日の件ですが、社内調査が完了いたしまして」
人事部長が咳払いをした。
「黒田課長の業務上横領、成果の窃取、パワーハラスメント、これら全ての事実が、複数の社員の証言および社内記録により確認されました。本日付で懲戒解雇、ならびに告訴の手続きを開始いたします」
如月奈々の六年間が、事務的な文体で、静かに裁かれた。
毎日の怒声。盗まれた成果。「はい」と言い続けた日々。全部が、会議室の蛍光灯の下で、淡々と整理されていく。泣きたいのか笑いたいのかわからなかった。ただ、胸の奥のどこかがじわりと溶けていく感じがした。
「如月さんの過去六年間の査定はすべて最高評価に遡及修正し、未払い残業代および横領されたボーナスの差額は全額支給いたします」
頷いた。声が出なかった。
「なお」と人事部長が続けた。「昨日の……その、オフィスで発生いたしました一連の出来事につきましては」
ここだ、と思った。魔法使いが空間をぶち抜いて降臨した件。
「社員の記憶が著しく錯綜しており、極度の疲労とストレスに起因した集団的な認知の混乱であったと、専門家の見解が出ております。記録上は、黒田課長が自発的に全ての事実を認めた、ということで処理いたします」
集団幻覚。
――運が良かった。
冷静に考えれば、あれは完全に無茶だった。魔力の蓄えもない状態で大魔法を使って、あやうく消えかけて。激情に駆られた大魔法使いの無茶が、こんな形で綺麗に落ち着くとは思わなかった。
でも。
戻ったら、あいつにこの世界の常識を叩き込まないと。
空間転移は禁止。職場への無断侵入も禁止。上司を魔法で跪かせるのも禁止。あと戸籍を何とかしないといけないし、銀行口座はどうする。この国の文字は読めるのか。
考え始めたら、問題が山ほど出てきた。
……これからも、一緒に暮らしてゆくなら。
「最後に」人事部長が、少し表情を緩めた。「如月さんには長期にわたり多大なご負担をおかけいたしました。社内コンプライアンス体制の見直しが完了するまでの間、有給として一週間の特別休暇を付与いたします。給与は全額支給です」
一週間。
丸ごと一週間、何もしなくていい。
「……ありがとうございます」
声が掠れた。六年間、この会社で「ありがとうございます」を何千回言っただろう。でも今日のこれだけが、本当に自分の言葉だった気がした。




