20 消えていく輪郭
ソファに腰を下ろした瞬間、意識が落ちた。
今日は色々ありすぎた。前世の記憶が戻った日よりも色々あった気がする。身体より先に頭が限界だったのだろう。
気づいたら、部屋の外が暗くなっていた。
キッチンから、トントン、という包丁の音が聞こえる。どのくらい眠ったのかわからないが、るんすけが足元で「ピロリ」と小さく鳴いて、起こしてくれた。
ぼんやりした頭でスマートフォンを確認すると、見知らぬアドレスからメールが届いていた。送信元は会社の人事部だった。
『如月様。このたびの件につきまして、明日、改めてお話を伺えますでしょうか。ご都合をお知らせください』
短い文面。事務的な文体。クビなのか、それとも別の何かなのか、一切わからない。
胸の奥に、小さな冷たいものが落ちてきた。
クビなら、クビでいい。あの会社に未練はない。ただ、佐藤さんたちがどうなるのかだけが気がかりだった。あの場にいた全員が、あの非常識な五分間の目撃者なのだ。
§ § §
キッチンに立つエリオットの背中を、ソファから眺めていた。
包丁を持つ手が流れるように動く。三週間前まで包丁の存在すら知らなかったはずなのに、もう完全に手に馴染んでいる。何事も極めずにはいられない性分だ、この人は。
その背中を眺めるのが、最近ちょっとした楽しみになっている。誰にも言わないけど。るんすけは知ってるけど。
だから、音が止んだ時、すぐに気づいた。
「……エリオット?」
振り返らない。カウンターに両手をついたまま、動かない。
ソファから立ち上がって、二歩踏み出したところで、エリオットの膝が折れた。
「エリオット!!」
駆け寄る。床に膝をついた背中に触れようとして――手が、すり抜けた。
正確には、すり抜けたわけじゃない。触れている。でも、何かが、ない。触れているのに、そこに「いる」感じがしない。
肩を掴む。体温がない。指先が、冷たいというより、虚ろだった。
頭が真っ白になる。
ついさっきまで、包丁の音がしていた。いつも通りの夜だった。ほんの数分、目を離しただけなのに。
そして、見た。
エリオットの輪郭がぼやけていた。
夜の室内灯の下で、銀髪の先端が霞のように滲んでいる。手の甲の亀裂は深く広がり、蒼白い光がそこから外へ、外へと漏れ出している。まるで器が割れて、中身が零れ落ちていくみたいに。
(消えてる)
魔力を使い果たした魔法使いは消滅する。前世の記憶が凍りついた頭の中でノイズのように蘇る。あれだけの大魔法を、魔力の蓄えもない状態で、命を削って――。
だから手の甲に亀裂が走っていたのだ。「若干の負荷」なんかじゃない。最初から、こうなるとわかっていたのだ。
わかっていて、あの会議室に跳んできた。わかっていて、「迎えに来た」と言った。わかっていて今日まで一度も、私に弱音を吐かなかった。
「……よかった」
掠れた声が、床に落ちた。
「君を……助けることが……できて、よかった」
笑っていた。薄れゆく顔で、ポーカーフェイスのまま、でも確かに、満足そうに笑っていた。
「馬鹿!!」
気づいたら抱きしめていた。膝をついたまま、輪郭の薄い身体を力任せに。
「死ぬな。消えるな。馬鹿、馬鹿、馬鹿!!」
背中に腕が回ってきた。羽みたいに軽い。その軽さがまた怖くて、もっと強く抱きしめた。
どうすればいい。どうすれば助けられる。
魔力。この人には魔力が必要だ。私には魔力しかない。キスで魔力の補給……ううん、でももう少しの魔力を移譲したところで、この消滅は防げない気がするっ!
なら、どうすれば――。
そうだ。キスだ。いつものチュ、じゃなくてもっと深い……
(……ベロチューなら、魔力は効率よく伝わるんじゃない?)
頭の中で、何かがショートした。
で、でぃーぷきっす……。
む、無理……想像しただけで心臓が……。
待って。心臓が止まるかもしれない。本当に止まるかもしれない。イケメンアレルギーの最終形態、アナフィラキシーショックで私が先に死ぬ可能性が浮上してきた。
救命する側が先に倒れてどうする。落ち着け。これは医療行為。人工呼吸の親戚。そう、要救助者に対する応急処置なんだってば!!
だって舌を絡め合うんだよ?
体液を交換するんだよ!?
前世でも今世でも、そんなことはしたことがない!!
万年処女舐めんなっ!!
ちなみに前世も合算すると、処女歴は実質五十年に達する。年季が違うのだ、年季が。こんな土壇場で実戦投入できる経験値じゃない!!
脳内の乙女回路がショート寸前でパチパチ火花を散らしている。そしてそうしている間にも、次第にエリオットの存在が薄くなってゆく。
「ああっ! もうっ!!!」
違う違う冷静になれ如月奈々。今はそういう問題じゃない。目の前の人が消えかけてるんだから。緊急事態なんだから。感傷とかときめきとか乙女回路とか、全部今すぐシャットダウン! そういうのは後!
……でも、ディープキス。
(うわぁ!!)
改めて言うが、私は生まれてこのかた、二十八年間、一度も誰かとキスをしたことがない。手を繋いだことですら片手で数えられる。前世の公爵令嬢時代も、政略結婚の話は何度かあったが実際に誰かと結ばれたわけでもなく、現代に転生してからは六年間ひたすら働いていただけで、恋愛とか色気とかそういうものとは完全に無縁の人生を――。
エリオットの輪郭がまた少し薄くなった。
(そんなこと考えてる場合じゃない!!)
わかってる。わかってるけど。でも相手は、よりにもよって前世で私を処刑したあの男なのだ。二十八年間の人生経験がほぼ役に立たない局面ってこういうこと?
「……奈々」
掠れた声が私の名前を呼んだ。
蒼い瞳が、薄れながらも、まっすぐに私を見ていた。
なんで。なんでそんな顔で見るの。消えかけてるくせに。逝きかけてるくせに。
その目はずるい。安心しきった目だ。私に看取られるなら本望だ、みたいな目だ。
勝手に完結するな。勝手に満足するな。あんたにはまだ、話してもらってないことが山ほどあるんだから。
いい。もう。どうにでもなれ。
私は目をつぶった。
顔を近づける。数センチ。もう数センチ。鼻先が触れそうなくらいの距離で――止まった。
(……待って本当にしていいの? これ取り消せないやつだよね? 前世込みで完全に取り消せないやつだよね? いやでもエリオットが消えるよりはいい。いや待って息が当たってる。近い。近すぎる。心臓が煩い。イケメンアレルギー? それどころじゃない。目、開けた方がいい? いや絶対開けたら固まる。でも閉じたまま突撃するのも――)
自分からキス。
しかもふっかいの!!
あ、心臓の音がうるさい!! いやそれどころじゃない。
後数ミリの所で、私の動きが止まった。
む、無理!! やっぱ無理だよッ!?
――と、その時、私の背後でるんすけが、ピロッ、と一声鳴いた。
その音に私は――。




