19 お姫様抱っこで帰宅
フロアを横切る間、誰も声をかけてこなかった。
ただ、佐藤さんだけが、涙で濡れた顔で小さく頷いた。
その頷きは、たぶん「ありがとう」でも「ごめんね」でもなかった。
もっと単純な、人間の感情だった。
「よかったね」
私もつられて、泣きながら小さく頷き返した。
エレベーターホールで、エリオットが私の手を握ったまま立ち止まった。
「空間転移で帰るか。それとも、歩いて帰るか」
「……歩く。少し、外の空気吸いたい」
エリオットが微かに目を細めた。
それが笑顔なのだと気づくのに、もう何秒もかからなかった。
ビルの外に出ると、三月の午後の風が頬を撫でた。
冷たくて、でも柔らかい風だった。
蛍光灯の下ではなく、太陽の光が眩しくて。
隣に立つ銀髪の大魔法使いが、漆黒のスーツ姿であまりにも現実離れしていて。
全てが夢みたいだった。
でも、繋いだ手の温度だけが、確かに本物だった。
大人になってから、誰かと手を繋いで歩いたことなんて一度もなかった。前世を入れても、なかった。
「……ねえ、エリオット」
「ん?」
「あんた、会社にいた人たちの記憶、消せるんでしょ。魔法で」
「可能だ。だが、消す必要があるか」
「……ないかも」
あの場にいた全員が見た。
黒田の真実を。自分たちが六年間、見て見ぬふりをしてきたものを。
あれを「なかったこと」にしてしまったら、また同じことが繰り返される。
魔法云々は……うん、きっとなんとかなる。
っていうか、なんとかなぁれ!!
「そっか。じゃあ、そのままにしておく」
エリオットは頷いた。
「賢明だ」
「あんたに言われると複雑」
私は鼻をすすりながら歩いた。
繋いだ手は、放さなかった。
三月の午後の風は、柔らかかった。
ビルを出てから、五分ほど歩いた。
繋いだ手を放す理由がないので、放さないまま歩いている。冷静に考えれば、漆黒のスーツに銀髪の美貌の外国人――しかも身長は百八十センチ台後半――と、隈だらけのくたびれたOLが手を繋いで歩いている図は、相当に目立つはずだ。
だが不思議と、道行く人は誰も振り返らない。
「何で、誰も見ないんだろう?」
「認識阻害の魔法を展開している。君と私の姿が視界に入っても、周囲の人間の認識に引っかからないように」
「魔力、大丈夫なの?」
「ああ、問題ない」
ふと、エリオットの手に目を落とした。
白い、長い指。
その手の甲に、薄い亀裂のような痕が走っていた。さっきはなかった。いや、さっきは気づかなかっただけかもしれない。蒼白い光の筋が、皮膚の下から微かに透けて見える。
「……エリオット。その手」
「ん?」
「手の甲。痕がある。それ、何」
エリオットは一瞬だけ視線を手元に落とし、すぐに前を向いた。
「何でもない」
「嘘。私がそれで騙されると思った?」
エリオットは沈黙した。
数秒の間を置いて、ポーカーフェイスのまま答えた。
「空間転移の際に、若干の負荷がかかった。すぐに回復する」
若干の負荷。
この男の言う「若干」は信用してはいけない。「若干部屋を掃除する」と言って六畳一間を異次元の王宮に改造した前科がある。彼の言う「若干」は、控えめに言って致命傷の可能性がある。
追及しようとしたが、言葉が出なかった。
代わりに、繋いだ手を少しだけ強く握った。
エリオットの指が、応えるように強く握り返してきた。
§ § §
駅までの道のりの半分ほどで、私の足が止まった。
止まった、というより、止まってしまった。
急に、全身の力が抜けたのだ。膝から下が、綿のようにふにゃふにゃになって、地面が揺れている。
「……あれ」
エリオットの回復魔法は完璧だったはずだ。五十六時間の疲労は綺麗に解消されていた。
でも、今抜けたのは肉体の力ではない。精神の糸だ。
あの地獄のようなオフィスに戻らなくていい。
黒田の理不尽な怒声を聞かなくていい。
ただ自分を殺すための「はい」を言わなくていい。
そう理解した瞬間に、六年間張り続けていた全ての糸が、一本残らず解けた。
「あ……」
膝が折れる。アスファルトに崩れ落ちそうになった身体を、横から伸びた腕が鋭く攫った。
浮いた。
文字通り、地面から足が離れた。
エリオットの右腕が私の膝の裏に、左腕が背中に回されている。
お姫様抱っこだ。
「ちょっ……!!」
「動くな。落とす」
「落とすとか言わないで!! 降ろして!! ここ公道!!」
暴れようとしたが、エリオットの腕は鋼鉄の拘束具のように微動だにしなかった。
「衆目の中でこの体勢は恥ずかしいと言いたいのだろうが、安心しろ。認識阻害は私自身には常に展開されている。お前だけが、浮いて見えるかもしれないが」
「それ余計に恥ずかしいやつ!! サイコキネシスで浮いてるOLとか都市伝説にされる!!」
叫んだが、降ろしてくれる気配は皆無だった。
それどころか、エリオットは当然のように歩き始めた。漆黒のスーツに銀髪をなびかせ、OLを一人軽々と抱えたまま、駅前のロータリーを悠然と横切る大魔法使い。どこからどう見ても正気の沙汰ではない。
だが、その腕の中は――恐ろしいほど、安全だった。
揺れない。安定している。まるで、この姿勢が世界で最も自然な状態であるかのように、私の体重を完璧に支えている。彼の胸から伝わる体温は少し低めだが、心臓の鼓動が規則正しく響いていて、それが不思議と安心する。
「……降ろして」
声が、小さくなった。力がこもっていない。本気で嫌がっていないことが完全にバレている。
「断る。君の足は今、まともに機能していない。転倒して怪我をするリスクを許容する合理性がない」
「合理性の問題じゃない……」
「では何の問題だ」
「……心臓の問題」
小さく呟いた。エリオットの耳には届いていないと思いたい。
ちらりと見上げた彼の耳が、ほんのり赤かった。届いてた。最悪だ。
§ § §
お姫様抱っこのまま駅前のロータリーを横切っていると、ポケットの中でスマートフォンが振動した。
片手で取り出して画面を見ると、「佐藤」の名前が表示されていた。
「……出ていい?」
「構わない」
エリオットに抱えられたまま、通話ボタンを押した。
「もしもし、佐藤さん」
『如月さん!? よかった、繋がった……! LINEしたんですけど既読もつかなくて、もしかして倒れたんじゃないかって……』
佐藤さんの声が震えていた。
「大丈夫。生きてるよ」
空中に浮いた状態で言うセリフじゃないが、今それを説明できる余裕はない。
『あの、会社なんですけど……今、大騒ぎで。黒田課長が、えっと、その……あの後、役員が全員集まって、緊急の会議が始まって』
「うん」
『これから残った社員への事情聴取が始まるみたいで。でも……でも、みんな如月さんの味方ですから。私も、田中さんも、白峰さんも。今日見ていた全員が証言するって言ってます。だからきっと、如月さんに悪いことにはならないと思って』
声が、詰まった。
佐藤さんが、泣いていた。
「……佐藤さん」
『ごめんなさい。今まで、ちゃんと言えなくて。ずっと、おかしいと思ってたのに』
「謝らないで。佐藤さんのせいじゃない」
本当にそう思っていた。あの場所はそういう場所だった。誰もが誰かを守るために黙っていた。
「ありがとう。連絡してくれて」
『如月さんは、今……大丈夫ですか』
エリオットが私を抱えたまま、住宅街の細い道を静かに歩いている。夕陽が長い影を落としていた。
「うん。大丈夫。すごく」
通話を切って、スマートフォンをポケットに戻した。
目の奥が、じわっと熱くなった。泣かない。泣かない。もう今日だけで十分泣いた。
「……友人か」
「同僚。いい人」
エリオットが、小さく頷いた。
§ § §
アパートの前に着いた時、夕陽が西の空にかかっていた。
築三十年の、くたびれた外観。錆びた階段。軋む蝶番。
今朝ここを出た時と、建物の見た目は何も変わっていない。
だが見ている私の心が、世界が、完全に変わっていた。
エリオットが階段の前で立ち止まった。さすがにお姫様抱っこのまま錆びた階段を上がるのは危険と判断したらしく、ゆっくりと私を地面に下ろしてくれた。
足裏が冷たいアスファルトに触れる。
立てた。ちゃんと、自分の足で。
「エリオット」
「ん?」
夕陽が彼の銀髪を琥珀色に染めていた。漆黒のスーツの肩に、光の粒子が散っている。
美しかった。
前世でも、こんな夕暮れの光の中で彼を見たことがあった気がする。宮廷の庭園で。魔術院の回廊で。記憶は曖昧だが、あの時も同じことを思っていた。
――この人は、怖いくらい綺麗だ。
「……ありがとう」
声が掠れた。
「助けてくれて、ありがとう」
エリオットのポーカーフェイスが、微かに――本当に微かに、けれど確かに、崩れた。
眉が下がり、目尻が柔らかくなり、鉄のように引き結ばれていた唇が、ほんの少しだけ弧を描いた。
笑った。
この冷酷だったはずの男が、笑った。
悠久の孤独を越えてきた男。
命を削って私の弁当を作り、魂を燃やして私を迎えに来た男。
その笑顔を引き出したのが、たった一言の「ありがとう」だったことが、なんだかおかしくて、切なくて、胸が苦しかった。
「礼には及ばない」
エリオットは小さく首を振り、いつもの無表情に戻った。
だが、耳の先だけが仄かにピンク色を帯びていることを、私のイケメンアレルギー判定機能は見逃さなかった。
「帰ろう。夕食の支度がある」
「……まだ料理のこと考えてるの」
「当然だ。今夜は特別な日だ。それに見合う献立でなければならない」
錆びた階段を上る。
軋む蝶番の音が、今日だけは少しだけ優しく響いた気がした。
ドアを開ける。
六畳一間の部屋の中で、るんすけが全力回転しながら出迎えてくれた。
ピロリッ、ピロリッ、と興奮した電子音を連打しながら、エリオットの足元を何周もぐるぐると旋回している。留守番を完璧に遂行した忠犬の、全身全霊の出迎え儀式だった。
「ただいま、るんすけ。よく守ってくれた」
エリオットがしゃがみ込み、丸い背中を撫でる。るんすけは誇らしげにピロッと一声鳴き、それから私の方を向いた。
ピロリッ。
長めの電子音。
翻訳するなら、たぶん「おかえりなさい」
「……ただいま」
靴を脱いで、六畳一間の大理石の床に入る。
魔法で拡張された空間は、朝と変わらず温かい光に満ちている。エリオットが「安全地帯」と呼ぶ、この小さな聖域。
六年間、ただの逃げ場所だと思っていた。
でも今は違う。
ここが、私の帰る場所だ。
「もう頑張らなくていい」
不意に、背後からエリオットの声が降ってきた。
振り返ると、彼は玄関口に立ったまま、靴を脱ぐ動作を止めて、私を見ていた。
蒼い瞳が夕陽の残光を映して琥珀に揺れている。
「私の、愛しい人」
低く、静かな声。
ポーカーフェイスは、崩れていなかった。
けれど、その声だけが震えていた。
そこで、全部が来た。
六年間ずっと張り続けていた、最後の糸が、ぷつりと切れた。
「……っ、う……」
声が出た。みっともない、しゃくり上げるような声が。膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込む。涙が止まらない。鼻まで出てきた。二十八歳の社会人として最低の状態だが、もう無理だった。
「な……っ、なんで、こんな……っ……」
何が言いたいのかも、自分でわからなかった。なんで泣いてるのか。なんで今なのか。全部わかってる。全部わかってるけど言葉にならなかった。
「あ……あああっ……ッ!」
声にならない声が喉を突いて出る。
エリオットは何も言わず、私の前に膝をついた。大きな手が背中にそっと触れて、ゆっくりと規則正しくさすり続けた。
ずっと見ていてくれた。
前世でも、現代でも。千里眼で、弁当を作りながら、ずっと。
誰にも見えていなかった六年間を、この人だけが見ていた。
どれくらい泣いただろう。気づいたら、エリオットの胸に額を押しつけて泣いていた。漆黒のスーツがぐしょ濡れになっている。
「……ごめん、鼻水」
「わかっている」
「拭いちゃった、たぶん」
「わかっている」
「……本当にごめん」
「問題ない」
真顔で言われて、泣きながら笑ってしまった。
笑ったら、少しだけ、楽になった。
「……ご飯、作ってくれるんでしょ。早くして、お腹すいた」
エリオットの耳が真っ赤になった。




