18 六年分の告白
私は叫んだが、エリオットは振り返らなかった。代わりに、左手を軽く持ち上げた。
指先から、蒼白い光の糸が伸びる。それは蛍光灯の光に紛れるほど細く、目を凝らさなければ見えないほど微かなものだった。
その糸が、黒田の喉元に触れた。
「なっ……なにを……して……」
黒田が、声を絞り出した。
しかしその声は途中で途切れ、代わりに別の声が――黒田のものでありながら、黒田の意志とは無関係な声が、口から溢れ始めた。
「あ……あぁ? なんだ……なんで俺の口が勝手に……」
自白の糸。
エリオットが前世で異端審問に用いた魔法の一つ。対象の喉元に触れた魔力の糸が、対象が最も隠したいと思っている事実を、本人の意志に反して声に変える。
それは残酷で、優雅で、絶対的に公正な魔法だった。
§ § §
黒田の口が、開いた。
そして、止まらなくなった。
「俺は――俺は経理の帳簿を操作して、この六年間で合計七百二十万円を着服した。接待費として計上したが、実態は全て俺個人の飲食や遊興に使った」
フロアが、凍りついた。
私も、凍りついた。
七百二十万円。
六年間。
数字が頭の中に上手く入ってこない。
黒田の目が見開かれていた。自分の口から出ている言葉に、本人が最も驚いている。
「やめっ……やめろ……!! なんで……!!」
だが、止まらない。
「俺は部下の如月奈々が作成した資料、提案書、分析報告の全てを、自分の名義で上層部に提出し続けた。成果は全て俺のものとして評価され、如月の評価は意図的に低く据え置いた。ボーナスの査定も、俺が操作した」
あ。
そうか。
そういうことか。
二年目の秋、どれだけ頑張っても評価が上がらなくて、自分に何が足りないんだろうと夜中に泣きながら資料を作り直した。あの夜が、頭の中で再生される。
三年目に出した提案書、部長から「黒田くんのアイデアは素晴らしい」と褒められていたのを遠くで聞いた。名前が違うと思ったけど、どこかで自分の見当違いだと思い込もうとした。
四年目の冬、ボーナスの明細を見て、深夜のコンビニの駐車場で立ち尽くした。あれも。五年目、後輩の方が先に昇給して、自分の無能を疑った夜。あれも。
全部、この男だった。
そういうことだったのか。
佐藤さんが口元を手で押さえたのが見えた。
周囲の同僚たちの顔に、驚愕と、そして理解が広がっていく。知っていた。みんな、薄々気づいていた。でも誰も言えなかった。
誰かが小さく「やっぱり」と呟いた。その呟きに、この課の六年間が全部詰まっていた。
「俺は如月が残業している間、定時で帰って、経費で飯を食っていた。休日出勤させた日も、俺はゴルフに行っていた。提出された資料は三分も読んでいない。中身は全部如月が作ったからだ。俺にはあの資料を作る能力がない」
最後の一文で、フロアに低い、抑えきれないどよめきが走った。
私は笑いたいのか泣きたいのか、よくわからなかった。
わからないまま、ただ立っていた。
能力がない。そうか。三分も読んでなかったのか。あの分厚い分析レポート、私が徹夜で作ったやつ。三分も。
「黙れ……!! 黙れ黙れ黙れ!! なんだこれは!! 何をされた!!」
黒田は自分の口を両手で押さえようとしたが、声は手の隙間からも漏れ出てくる。
這って逃げようとしたが、見えない何かに縫い止められたように、その場から一歩も動けなかった。
「俺は白峰サヤカに命じて如月に仕事を押し付けさせていた。白峰を使って如月のミスに見せかけた案件は三件ある。全て俺が白峰にそう指示した」
その名前が出た瞬間、フロアの端で一人の女性社員が身を強張らせた。白い服の女性。大きな瞳。
――白峰サヤカさんだった。
彼女は唇を震わせ、大きな瞳からポロポロと涙を溢れさせながら、すっと黒田の前に進み出た。
「……私、ずっと怖くて、言えませんでした。黒田さんに逆らったらクビにするって脅されて……でも、如月先輩がいつもボロボロになっていくのが、本当に辛くて……っ!」
静寂のフロアに、白峰さんの声が響いた。
目の奥が、じわりと熱くなった。
この子、怖かったはずなのに。ずっと怖かったはずなのに。
「私……証言します。黒田さんのやってきた不正、ぜんぶ上に話します……! 如月先輩、ごめんなさい、助けてあげられなくてごめんなさい……っ!」
その言葉が、凍りついていたフロアの空気を動かした。
「俺は佐藤が一度反論してきた時、人事に圧力をかけて査定を最低にした。他の社員にも同じことをした。逆らう奴は潰す。それが俺のやり方だ」
黒田の口から次々に自白がこぼれ続ける中、白峰さんの勇気に打たれるように、一人の男が立ち上がった。佐藤さんだった。
「ひどい……」
佐藤さんが、涙を流していた。
声は震えていたが、その拳は固く握られていた。
「私も……証言します。このままでいいはずがない。もう、限界です……如月さんが可哀想っ!!」
佐藤さんの声を震源地にして、他の同僚たちからも「俺も」「私も証言する」と、小さな、しかし確かな怒りの声が上がり始めた。
黒田の告白は続いた。
横領の手口。パワハラの詳細。改竄した報告書のファイル名。接待費の領収書の偽造方法。全てが本人の意志に反して、克明に、正確に、フロア中に響き渡る声で語られていく。
それは、裁判だった。
証拠も弁護士も裁判官もいない。ただ、真実だけが強制的に引きずり出される、魔法による一方的な審判。
本来なら、こんなやり方は間違っている。法治国家で許される手続きじゃない。わかってる。わかってるけど――六年間、正しい手続きの全部が私を見捨ててきたのだ。今だけは、この理不尽な正義に乗らせてほしい。
汚物を垂れ流すように真実を吐き続ける黒田を、フロアの全員が見ていた。
辟易とした目で。怒りと呆れが混ざったような目で。
そうだよ、みんなわかってたんだよ。わかってて、怖くて言えなかっただけで。
色々と問題は山積みだ。これからどうなるのか、私の立場がどうなるのか、何一つわからない。
でも今だけは。今この瞬間だけは。
黒田……ざまぁみろ!!
§ § §
黒田の告白が終わったのは、五分後だった。
最後には、声も枯れ果てて、床に両手をつき、犬のように四つん這いになって荒い呼吸を繰り返していた。ネクタイは緩み、スーツは汗で肌に張り付き、あの「上司」としての威厳は一片たりとも残っていなかった。
フロアは静寂に包まれていた。
三十人以上の社員が、異なる感情を胸に抱えたまま、黒田の崩壊を見つめている。驚き。怒り。解放感。安堵。そして、何より深く滲んでいたのは――なぜもっと早く、こうならなかったのかという後悔。
エリオットが蒼白い糸を消した。
黒田を見下ろす視線には、もう怒りすらなかった。あるのは、路傍の石を見るような無関心だけだった。
「全て聞いたな」
エリオットの声がフロアに響いた。
誰に向けた言葉かは明白だった。固まったまま立ち尽くしている社員たち全員に。
「この男が自ら口にした事実は、全て真実だ。この魔法に嘘は混じらない。彼が最も隠したいと思っていたものだけが、引きずり出された」
魔法。
この場の全員が「魔法」という単語を聞いた。
だが、不思議なことに、喜びこそあれ誰も否定しなかった。今さら「そんなことはありえない」と言える人間が、この場にいるはずがなかった。空間が裂けて人が現れ、上司が見えない力で跪かされ、自らの罪を残らず吐き出した。これを前にして合理的な説明を求める余裕のある人間は、既にこのフロアにはいない。
エリオットは振り返り、私を見た。
「奈々」
静かな声。さっきまでの冷酷な裁定者の声ではなく、六畳一間で「おかえり」と言ってくれる時の、あの声だった。
「迎えに来た」
二度目の、同じ言葉。
でも、意味が違っていた。一度目は宣言だった。二度目は、ただの報告。
やるべきことは終えた。あとは、君を連れて帰るだけだ、と。
「……あんた、ほんとに、とんでもないことしたね」
声が、震えた。怒っているのか、呆れているのか、泣いているのか、自分でもわからなかった。
たぶん、全部だった。
「上司を魔法で跪かせて、全部自白させて、それで……それで……」
言葉が詰まった。
だって、この瞬間。
私の六年間を潰してきた全てが、たった五分で崩壊した。
毎日の怒声。理不尽な残業。盗まれ続けた成果。削り取られた自尊心。「大丈夫」と言い続けるしかなかった日々。
全部が、終わった。
「ぐ……っ」
涙が、止まらなかった。
また泣いている。ここ最近、泣いてばっかりだ。二十八歳の大人として情けないにもほどがある。
でも、この涙は今までのとは違う。悔し涙でも、疲れの涙でもない。体の奥に六年分溜まっていた何かが、ようやく出口を見つけて流れ出している。
エリオットが手を差し出した。
白い、長い指。前世で無数の魔法を紡ぎ、今生では卵焼きとハンバーグを作り続けた、不器用で優しい手。
「帰ろう、奈々」
私はその手を取り、立ち上がった。
いや、立ち上がったというより――引き上げられた。六年間の泥の中から、この手に。




