17 自白の糸
黒い服を着た男が、フロアの中央を歩いてくる。身長は百八十センチ台後半。外国人か。いや、それにしてもあの銀髪は染めたにしても異常だし、あの顔は――
黒田の思考が、途中で止まった。
脳が、目の前の存在の分類を拒否している。客か。取引先か。誰かの身内か。どの引き出しにも、入らない。
男の視線と、目が合った。
蒼い。氷のように冷たい蒼。
その瞳の奥に宿っているものを、黒田の生存本能が読み取った。
怒り。
だが「怒鳴る」とか「殴る」とか、そんな次元ではない。もっと根源的な、存在そのものを否定するような、静かで絶対的な否定。
――殺される。
理由も根拠もなく、そう思った。
黒田の背中を、三月の冷水を浴びたような悪寒が走り抜けた。
だが、この男は課長だ。この四十年の人生で、常に「上」にいた側の人間だ。恐怖を恐怖として認めることは、プライドが許さない。
「……おい。あんた誰だ」
黒田は震える声を虚勢で補強しながら、立ち上がった。
「ここは関係者以外立入禁止だぞ。どこのどいつだ。受付は通ったのか」
エリオットは足を止めなかった。
黒田のデスクの前を、一瞥すらせずに通り過ぎようとした。
「おい、聞いてんのか!!」
黒田が、エリオットの肩に手を伸ばした。
その手が触れる寸前、空気が変わった。
エリオットが、止まった。
黒田に向けたのではなく、ただ歩みを止め、首だけを僅かに傾けて――黒田の方を、見た。
視線。
たった一秒の視線。
黒田の伸ばした手が空中で凍った。
指先が震え、顔から血の気が失せた。額から脂汗が滲み、膝が笑い始める。心臓が飛び出しそうなほど脈打っている。
手は触れなかった。触れることが、できなかった。
四十年の人生で培った「上の側」の虚勢が、本能の前で音を立てて崩れていく。これは役職や年収で測れる相手ではない。生き物としての格が、根本から違う。
エリオットの唇が、微かに動いた。
「お前か――カレンシュを虐げていたのは」
低く、静かな声。
それだけ言って、エリオットは再び歩き出した。
黒田は糸の切れた人形のように椅子に倒れ込んだ。スマホが手から落ち、リノリウムの床にカタンと乾いた音を立てた。競馬アプリの画面が、天井の蛍光灯を映して光っている。
§ § §
佐藤は、自分の目を疑っていた。
まず、空間が裂けて人が現れた。それだけでも正気を疑う事象だが、それ以上に信じられないほどだったのは――黒田が、黙ったことだ。
六年間、一度も黙ったことのない男。怒鳴り、威張り、人の心を踏みにじることに一切の躊躇がなかった男。その黒田が、あの銀髪の男の一睨みで、声ひとつ上げられなくなっている。
佐藤の胸に、奇妙な感覚が湧き上がった。
恐怖か。いや違う。
――爽快感だ。
直後、その感情を抱いた自分に狼狽する。六年間、見て見ぬふりをしてきた自分に、これを感じる資格があるのか。それでも、湧き上がるものは止められなかった。
銀髪の男は、奈々のデスクに向かっている。
佐藤は唇を噛んだ。
(如月さん。あの人、あなたの……?)
二人の間にあるものが何なのかは、わからない。ただ一つ確かなのは、あの男が如月さんのために来た、ということだった。あの恐ろしい存在の唯一の温度が、彼女にだけ向けられている。
その疑問の答えは、すぐにわかることになる。
§ § §
私は椅子に座ったまま、その光景を見ていた。
銀髪の男がフロアの通路をまっすぐに歩いている。
エリオットが、ゆっくりと私の前に近づいた。二歩。三歩。
彼が歩くたびに、魔力の余波が波紋のようにフロアに広がっていく。蛍光灯がちらつき、窓ガラスが微かに振動する。
「奈々。安心して見ていろ」
それは――約束を、果たしに来た者の声だった。
言うなり、彼は踵を返した。
再び、黒田の元へと歩いていく。
§ § §
「やめてエリオット!!」
私は叫んだ。
足が動いた。さっきまで膝に力が入らなかったはずなのに、気づいたらエリオットに向かって走り出していた。
「やめて! 殺す気!? ここ会社!! 日本!! 魔法禁止!!」
エリオットの腕に取りすがる。分厚いスーツの生地の下の腕が、鋼のように硬い。
「離してくれ、奈々」
「離さない!! あんたが暴走したら全部滅茶苦茶になるでしょ!!」
「すでに滅茶苦茶だ。この男が、君の全てを滅茶苦茶にした」
エリオットの声は、静かだった。怒鳴っていない。むしろ、不思議なほど穏やかだった。
だが、その穏やかさこそが恐ろしい。表面が凪いでいる時ほど、この男の底はとんでもないことになっている。
前世で一度だけ、彼が本気で怒った日を知っている。翌朝、魔術院の演習場が一晩で氷の彫刻庭園に変わっていた。原因は、彼の弟子を嘲った貴族の一言だった。
「あんたの気持ちはわかった! わかったから! だからお願い、これ以上は――」
「知っている」
エリオットが私の方を見た。
蒼い瞳の中に、自分の顔が映っていた。涙の跡と、隈と、二日ぶりの化粧の崩れた、ボロボロの顔。
「君が毎朝『大丈夫』と言って出て行くたびに、その色が少しずつ褪せていくのを、私はずっと見ていた」
色。
魂の、色。
そんなもの、自分では見えない。私はちゃんと笑えているつもりだった。ちゃんと、誤魔化せているつもりだった。
……全部、見られていたんだ。
「もう見ていられないんだ、カレンシュ――いや、奈々」
その声が、初めて震えた。
鉄壁のポーカーフェイスが、ほんの一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、崩れた。
蒼い瞳の奥に、灼けるような光が揺れていた。
怒り。悲しみ。後悔。そして、それら全てを圧縮した先にある、透明な何か。
「だから。もう少しだけ、私に任せてくれないか」
反則だ。そんな顔で、そんな声で頼まれて、断れるわけがない。
私の手から、ゆっくりと力が抜けた。
§ § §
私がエリオットの腕に取りすがっている間にも、黒田はリノリウムの床に膝をついたままだった。
顔面蒼白。脂汗が顎から滴り落ちている。立ち上がろうとしているが、見えない力が肩を押さえつけているかのように膝が持ち上がらない。
エリオットは静かに私の手を解き、一歩前に出た。
そして、跪いた黒田を見下ろした。
上から。
文字通り、上から。
前世の宮廷で、罪人を裁く時の視線だった。国を損なった者、誇りを穢した者に向ける、筆頭宮廷魔術師としての冷酷な裁定の眼差し。
そして当時、その視線を向けられて無事で済んだ者を、私は知らない。
「エリオット、やめて……!!」




