16 迎えに来た
完全に意識を手放し、冷たいリノリウムの床に叩きつけられる。
そう思って、ぎゅっと目を閉じた。
――だが、衝撃は来なかった。
代わりに私を包み込んだのは、信じられないほど力強くて、暖かな腕だった。
崩れ落ちようとしていた私の身体を、正面からすっぽりと抱き留めるように、大きな手が背中と肩を支えている。
ほんのりと漂う、淹れたての紅茶のような香り。
知っている匂いだった。毎晩、あの六畳一間で嗅いでいる匂い。
その瞬間、強張っていた体から、かくんと力が抜けた。理屈より先に、体が理解してしまったのだ。――もう、大丈夫だと。
「……え?」
恐る恐る、顔を上げる。
そこに、彼がいた。
空間転移の残滓の風に微かに揺れる、白銀の髪。
氷の底に焔を閉じ込めたような、深く、激しい色をした蒼い瞳。
六畳一間でエプロンをつけていた姿とはまるで違う、漆黒のスーツ姿の――それでも見間違えようのない、あの男。
エリオット・ヴァン・クリフォード。
私の前世を終わらせた大魔法使いが、なぜかオフィスのど真ん中で、私を抱き留めていた。
「エリオット……!?」
掠れた私の声は、ひどく静かなオフィスに吸い込まれた。
静かすぎる。さっきまで電話の音とキーボードの音で満ちていたフロアが、水を打ったように沈黙している。
周囲を見て、息を呑む。
私のデスクのすぐ横――空気に亀裂が入るように空間そのものが裂け、そこから蒼白い燐光のような魔力の残滓が、彼を取り巻くように漂っている。
――瞬間移動の大魔法だ!
あの世界でも空間と魂と時間に関わる魔法は禁術とされているほどの高難易度の魔法。
同僚たちが石像のように動けなくなっていた。
約三十名の人間がいるはずのフロアが、墓地のように静まり返っている。
そんな異常事態のど真ん中で。
エリオットは私を抱き寄せたまま、ゆっくりと口を開いた。
「迎えに来た」
その声は低く、静かで、フロア全体を震わせるような明瞭さを持っていた。
「え……ちょ……」
待って。何をしてるの、この人は。
ここは会社だ。私の職場だ。あんたは六畳一間でるんすけと留守番してるはずでしょ。なんでスーツ着てるの。なんで会社にいるの。なんで空間が裂けてるの。
「なんで、ここに……!」
パニックで声が裏返る。
周囲の同僚たちの視線が、一斉に「あ、如月さんの知り合いなんだ」という方向に向いたのを感じた。いや違う、これはそういう関係ではなくて、いやそういう関係でもあるけど、でもそうじゃなくて――!
頭の中で人事部への説明文を三パターン作成して、三パターンとも廃棄した。無理。説明できる要素が一つもない。
「話は後だ」
エリオットの腕に、少しだけ力がこもった。
私を支えるその腕だけが、この異常な空間の中で唯一、信じられないほど暖かかった。
ああ、ずるい。
こんな登場の仕方をされたら、怒れない。会社に魔法使いが乱入するという大事件の真ん中で、私の心臓はまったく別の理由で騒いでいた。
§ § §
漆黒のスリーピーススーツ。
光沢を帯びた黒いジャケットの下に、一点の皺もない白いシャツ。精緻に結ばれたダークネイビーのネクタイ。磨き抜かれた黒い革靴が、リノリウムの床を鳴らした。
オフィスの誰一人として、その装いに違和感を覚える余裕すらなかった。存在そのものが、場の文脈を上書きしていた。
そしてその上に載っているのは、人間の設計図に許されていないレベルの――顔だった。
銀色の髪が空間転移の残滓の風に微かに揺れている。彫刻のように整った横顔の輪郭。長い睫毛に縁取られた蒼氷色の瞳が、フロアを一望している。
オフィス全体が、凍りついた。
キーボードを叩いていた手が止まった。電話の途中だった声が途切れた。立ち上がりかけていた人間が、中腰のまま動けなくなった。
約三十名の人間が、呼吸すら忘れてその男を見つめていた。
通話中だった電話の向こうで、相手が「もしもし? もしもし?」と繰り返している。誰も応答しない。受話器を握ったまま、その社員は石像と化していた。
誰にもわからなかった。
この男がどこから現れたのかも。何者なのかも。なぜ、オフィスの真ん中に蒼い光と共に出現したのかも。
だが一つだけ、全員が本能的に理解したことがある。
この場にいる全ての人間を足しても、この男には敵わない。
それは「戦ったら負ける」という次元の話ではなかった。もっと根源的な、生物としての格の差だ。草食動物の群れの真ん中に、上位捕食者が降り立った時の、あの原始的な恐怖。
悠久の時を経た大魔法使いの存在感が、フロア全体に解放されている。
それは支配ではなかった。威嚇ですらなかった。ただ「在る」だけで場の全てを書き換えてしまう、桁の違う存在の密度だった。
彼は大切な壊れ物を置くように、奈々を椅子に座らせる。
その手つきだけが、先ほどまでの冷徹な気配と切り離されたように優しかった。
そして、ゆっくりと歩き始めた。
静まり返ったオフィスに、革靴の足音だけが響く。
コツ。コツ。コツ。
デスクの間を縫うように、迷いのない足取りで。
その革靴の音だけが、止まった時間の中で唯一動いている、時計の針のようだった。
その進路上にいた社員が、まるで海が割れるように左右に身を引いた。誰一人として、邪魔をしようとする者はいない。
§ § §
黒田は自席でスマホの競馬アプリを見ていた。
奈々に全てを押しつけ、これで自分の仕事は終わったと言わんばかりに。
午後二時のレースに五千円賭けている。先ほど先方に電話をかけ、部下が作った資料を自分の手柄として提出した高揚感がまだ残っていた。今日はツイてる日だ。馬も当たるだろう。
如月の顔が一瞬頭をよぎったが、すぐに消した。あれは便利な道具だ。道具の機嫌を考える人間はいない。
異変に気づいたのは、隣のデスクの後輩が椅子から転げ落ちそうになった音を聞いてからだった。
「なんだ騒々し――」
顔を上げた。
そこにいたのは、理解の範疇を超えた存在だった。




