15 折れた「はい」
午前八時。オフィス。
黒田はまだ来ていなかった。いつものことだ。あの男の出社時刻は九時半から十時の間で、それより前に来たことは六年間で一度もない。
私はPCを立ち上げ、昨日提出した資料を開いた。
黒田のどうでもいいメッセージを元に、修正箇所を洗い出す。具体的な指示は一切ない。「もう少し工夫しろ」だけだ。
それでも、私は修正を始めた。
グラフの色を変え、表の線を調整し、フォントサイズを微調整する。意味のある修正なのか、ただの自己満足なのか、もうわからない。
グラフの青を、少し濃い青に変える。罫線を〇・二五ポイント細くする。誰も気づかない差分を積み上げながら、「仕事をしている」という体裁だけを維持していく。指示なき手直しほど、心を削る作業はない。
九時四十五分。黒田が出社した。
日焼けした顔。昨日のゴルフの余韻を纏った、上機嫌の足取り。
その日焼けを見た瞬間、胃の奥が冷たくなった。私の五十六時間と、この男の十八ホール。同じ週末の出来事だとは思えない。
「おう、如月。できたか?」
「はい。修正版をサーバーにアップしてあります」
黒田はPCを開き、資料を流し見した。三分もかかっていない。百ページ、五十六時間分の仕事を三分。
「ああ、まあいいんじゃない。これで先方に出すわ」
それだけだった。
「お疲れ」すら、今日は言わなかった。
安堵ではなかった。胸の中に広がったのは、もっと冷たくて、重いものだった。
§ § §
事件は、午後に起きた。
黒田が自席で電話をしていた。先方の新役員との会話だ。ガラス張りの会議室ではなく、フロアのど真ん中で。
「ええ、ええ。もちろんでございます。この資料、全て私が責任を持って作成いたしましたので――」
指先が、止まった。
『全て私が作成いたしました』。
黒田は、私が五十六時間かけて作った百ページの提案書を、自分の手柄にしていた。
電話は続いている。黒田の声は朗らかで、自信に満ちている。
「ええ、週末返上で仕上げましたよ。部下には任せられませんからね、ハハ。いや私の力作でして――」
周囲の同僚たちの視線が、一斉に私に集まった。
佐藤さんが、信じられないという顔でこちらを見ている。
不思議と、視界がやけに鮮明だった。
黒田のネクタイの柄。受話器を持つ手の、日焼けの境目。デスクのペットボトルの結露。どうでもいい細部ばかりが、目に焼きついていく。心が処理を放棄した情報を、目だけが律儀に拾い続けている。
全員が知っている。
この週末、オフィスにいたのは私だけだったことを。
あの資料を作ったのが誰かを。
でも、誰も何も言わない。
黒田が電話を切った。満足げに椅子にもたれかかり、ペットボトルのお茶を一口飲む。ふと、こちらを見た。
「あ、如月。次の案件も頼むわ。似たような規模だけど、今度は水曜までな」
水曜。
また百ページ。
月曜の午後から水曜まで。
私の口が開いた。「はい」と言うために。
六年間、何千回と繰り返してきた、呼吸と同じ「はい」
それを言えば済むのだ。
理不尽な要求を突きつけられても、自分の手柄を目の前で奪われても、ただ無表情で飲み込めばいい。
かつて黒田に反論した優しい先輩が「自主退職」に追い込まれたあの日。
あの日から、私は自分を殺した。自分が微笑んで我慢すれば、少なくともその場は丸く収まる。
だから、今回も同じように――。
――出なかった。
「……」
声が、出ない。
出ないんじゃなくて、出せない。
喉じゃない。もっと深いところ。六年間ずっと黙ってきた何かが、今この瞬間だけは「もう無理」って叫んでいる。
もう一回「はい」と言ったら、何かが本当に壊れる。取り返しのつかないものが。
六年間、その「何か」を守るために「はい」と言い続けてきたはずだった。順番が、どこかで逆になっていた。
「おい、如月? 聞いてんのか」
――黒田の声が遠い。蛍光灯の光が白く滲んでいる。モニターの文字がぼやける。
視界の端に、白峰さんが見えた。心配そうに口元を押さえている。佐藤さんが立ち上がりかけている。
「ちっ、とにかく任せたぞ!」
言うなり黒田は、スマホを見始めた。
ああ、この人は最後まで、私が落ちていく音すら聞かないんだな。
「きさ……らぎ……?」
誰かの声が聞こえた気がした。
立ち上がって、その場から逃げようとした。けれど、デスクに手をついた指先に力が入らない。
視界がぐるりと反転した。
――ガタンッ!
椅子が倒れる鈍い音とともに、私はオフィスの床に崩れ落ちた。
冷たいタイルの感触が頬に伝わる。息がうまく吸えない。浅い呼吸を繰り返すたび、視界の端から急速に暗闇が侵食してくる。
全身がガタガタと震えている。壊れたモーターみたいに。制御できない。
(もう、無理だ)
初めて、はっきりと、そう思った。
そして、私の意識は暗い水底へと沈んでいった。
§ § §
エリオットは全てを見ていた。
千里眼が映し出す光景を、瞬きすることなく見つめ続けていた。
朝、奈々が出て行った瞬間から。あの男のデスクに出した資料を三分で流し読みされたことも。電話で手柄を横取りされたことも。新たな無理難題を突きつけられたことも。
「今度は、この手で。この魂の全てを使っても。君を助けに行く」
限界を迎えた彼女が、糸の切れた人形のようにオフィスの床に崩れ落ちようとしている。
エリオットは全て、見ていた。
誓った夜から、決めていた。彼女の戦いを奪わないこと。そして彼女が壊れる時には、何もかも置いて跳ぶこと。
――その時が、来ただけだ。
光が弾ける。
六畳一間から、エリオットの姿が光の粒子となって消滅する。
残されたのは、静寂と、充電ドックの上でランプを点滅させるるんすけだけだった。
§ § §
オフィスの冷たい床に崩れ落ちようとしている私は、暗い水底へと沈みかけていた。
周囲で「如月さん!」「大丈夫!?」と騒ぐ同僚たちの声が、ひどく遠く、くぐもって聞こえる。
もう、指先一つ動かせない。このまま意識を手放してしまえれば、どんなに楽だろう。
そう思って、完全に目を閉じようとした。
その瞬間。
空間が、震えた。
音ではない。圧力だ。
ビル全体を――いや、世界そのものを揺るがすような、圧倒的な存在感の波動。
ジジッ、と不快な音を立ててオフィスの蛍光灯が一斉に明滅し、デスクの上のモニターに激しいノイズが走る。
私は薄れかけていた意識を無理やり引き戻された。
(……なに、これ)
知っている。
この感覚を。
前世で、何度も味わった。
魂の奥底に刻み込まれた、絶対的な畏怖の記憶。
空気が重い。鼓膜の奥が痺れる。世界そのものが、何か巨大な存在の到来に身構えている。
これは。
大魔法が、発動する寸前の――予兆。




