14 君が壊れる時は私が行く
土曜日。
始発で出社した。
早朝の電車は空いていて、向かいの窓に映る自分と目が合った。土曜の朝五時に会社へ向かう女の顔は、我ながらひどいものだった。
誰もいないオフィスは、平日とは別の場所のようだった。窓から差し込む朝日が、空席のデスクの上に無人の影を落としている。
もう一人いるかと思った佐藤さんの席も、空だった。当たり前だ。休日に出てくる義務があるのは、「責任者」にされた私だけだ。
スライドの続きを打ち始める。四十枚目、五十枚目。
見積もりの数字を拾い、計算し、グラフに起こす。技術仕様を読み込み、先方の新役員の過去の発言や趣向を調べ、刺さるであろうポイントを資料に反映させる。
これは、前世で叩き込まれた「外交文書の組み立て方」に似ていた。
相手の立場、利害、性格を読み解き、一字一句に意味を持たせる。公爵令嬢カレンシュが何百通もの外交書簡を徹夜で書き上げたあの技能が、二十一世紀のパワーポイントの上で静かに発揮されている。
皮肉だった。
前世で命がけで磨き上げたスキルが、黒田の尻拭いのために使われている。
ふと手を止めて、誰もいないオフィスを見渡した。
三十席のデスクが、全部空っぽだ。土曜の午後の日差しの中で、私のキーボードの音だけが響いている。世界に一人だけ取り残されたような音だった。
午後三時。スマホが鳴った。
黒田からのメッセージ。
『進捗どう? 月曜の朝イチで完璧な状態で出せよ。先方の役員、うるさい人だからな。ミスは許されないから。あと、今日ゴルフ行ってくるわ笑』
ゴルフ。
この人は、ゴルフに行っている。
私が土曜の朝から一人でオフィスに座って、百ページの資料を作り直している間に。
この人は、ゴルフに行っている。
スマホの画面が滲んだ。
涙ではなかった。いや、涙だったかもしれない。わからない。もう、自分の感情の正体がわからなくなっていた。
怒りなのか。悔しさなのか。悲しみなのか。
全部が混ざって、どろどろの泥のようなものが喉元までせり上がってきて、でも飲み込むしかなくて、飲み込んだら胃に落ちて、胃壁を灼いた。
私は無言でスマホを裏返し、モニターに向き直った。
怒りすら、湧かなかった。怒りには体力がいる。今の私には、もうその在庫がない。
六十枚目。あと四十枚。
§ § §
日曜日の夕方。
百枚目のスライドが、ようやく完成した。
保存ボタンを押す指先が震えていた。疲労なのか、安堵なのか、もう区別がつかない。
モニターの右下に表示された時刻は、午後五時十三分。
金曜の午前から数えて、約五十六時間。そのうち睡眠は、オフィスの椅子で仮眠した四時間だけだ。
完成した資料を、ファイルサーバーの共有フォルダにアップロードする。黒田宛にメールを送信。件名は「【完了】月曜朝イチ提出資料」。文面は事務的に、三行で終わらせた。
送信ボタンを押した瞬間、身体中の力が抜けた。
椅子の背もたれに沈み込み、天井を見上げる。蛍光灯の白い光が、目の奥を焼くように眩しい。
(終わった)
終わった。
百ページの提案書。ゼロベースで。一人で。土日を丸ごと使って。
でも、達成感はなかった。
あるのは、からっぽの身体の中を冷たい風が吹き抜けていくような、虚しさだけだった。
五十六時間。誰かに褒めてほしいわけじゃない。ただ、この五十六時間が「あったこと」になってほしい。それだけなのに、それが一番難しい。
§ § §
帰り道、外は薄暗くなり始めていた。
私はその中を、二日間着替えていない服で、目の下に濃い隈を刻んで一人で歩いていた。
スマホが震えた。
黒田からの返信。
『確認した。まあ最低限の出来だな。もう少し図表のレイアウト工夫しろよ。月曜の朝、手直しした最終版出してくれ。お疲れ』
足が、止まった。
手直し。
最終版。
月曜の朝。
五十六時間かけて作った百ページの資料に対する評価が、「最低限」
しかも月曜の朝にさらに手直しを要求されている。つまり、明日の早朝にまた出社しなければならない。
スマホを握る手に、力がこもった。
画面に映る黒田の文面が、視界の中で歪んでいく。
『お疲れ』
お疲れ。
ゴルフ帰りの男に、お疲れと言われた。
目頭が熱くなった。
だめだ。ここは駅前だ。人がいる。泣くな。泣くな。私は大丈夫。大丈夫。いつもそうやって乗り越えてきた。前世でも今生でも。大丈夫。大丈夫、大丈夫、大丈夫――
§ § §
日曜の深夜。
帰宅した彼女は、ほとんど何も食べられなかった。
風呂にも入らず、泥のように天蓋の下へ沈んでいった寝顔を、私は枕元から見下ろしている。
回復術式は施した。肩の強張りも、目の奥の鉛も、胃の軋みも朝には消えているだろう。
だが――頬に残った涙の痕だけは、どんな術式でも消せない。
肉体は治せる。
心は、治せない。
……決めていたのだ。君の世界を勝手に覗かず、踏み荒らさず、君の戦いを君のものとして尊重すると。
だから今日まで、この手は何もしなかった。
奈々。それでも、これだけは覚えておいてくれ。
次に君が壊れる時は――世界の理がどうであろうと、私が行く。
固く握った拳の中で、爪が掌に食い込んでいた。
足元のるんすけが、ピロリ、と心配そうに小さく鳴いた。
§ § §
月曜日、朝六時半。
目が覚めた時、身体は嘘みたいに軽かった。
五十六時間の労働のあとだというのに、肩も腰も目の奥もどこにも痛みがない。エリオットの回復魔法と安眠の結界は、肉体的なダメージに関しては完璧に修復してくれたらしい。
だが、心は別だった。
頭の中に浮かぶのは、黒田のメッセージだった。
『手直しした最終版出してくれ』
月曜の朝。つまり、今日。
布団を跳ね除け、起き上がった。身体が勝手に動いている。六年間の条件反射だ。「行かなきゃ」というスイッチが、意志とは無関係に入る。
洗面所で顔を洗い、リビングに出ると、エリオットがキッチンに立っていた。
朝食の匂い。焼きたてのトーストと、スクランブルエッグの湯気。
「おはよう、奈々」
「……おはよう」
エリオットがこちらを見た。いつものポーカーフェイス。でも、その蒼い瞳の奥が、昨日より少しだけ違う色をしている気がした。
「朝食を用意した。それと、弁当も」
テーブルの上には、いつも通りの丁寧な朝食と、ワックスペーパーに包まれたお弁当箱が置かれている。不格好なリボンの結び目は、相変わらず妙に精密だった。
「……ありがとう」
「業務連絡を」
ああ、そうだった。毎朝のキス。魔力供給。
エリオットが私の前に立つ。至近距離の銀髪と、氷のような蒼い瞳。
心臓が、跳ねた。
イケメンアレルギーとは、明らかに違う鼓動だった。
「……っ」
キスは一瞬で終わった。いつも通り。何も変わらない。
でも唇が離れた直後、エリオットの表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。微かに眉が寄り、唇が何かを言いかけて、止める。
「行くのか」
その声は、問いかけではなかった。確認でもなかった。
――懇願に、近かった。
振り向いて目を合わせたら、決心が崩れる。それくらいには私はもう、この男の目に弱くなっている。
「うん。行かなきゃ」
私は靴を履き、鞄を持ち、ドアノブに手をかけた。
「行ってきます」
振り返らなかった。振り返ったら、行けなくなる気がしたから。




