13 56時間の資料地獄
木曜日。
あと二日だけ生き延びれば、週末が来る。
それだけを支えに、蛍光灯の下でモニターに向かっていた。今週の残業時間はすでに三十時間を超えている。体感では三百時間だ。時空が歪んでいる。
月曜の朝に「あと五日」と数え、火曜に「あと四日」と数える。そうやって一週間を消化試合にして、もう何年になるんだろう。
朝のキスは、最近少しだけ慣れてきた。
慣れてきた、というのは語弊がある。あいかわらず心臓は跳ね上がるし、エリオットの至近距離の美貌は脳に直接ダメージを叩き込んでくる。ただ、その後に訪れる不思議な温もり――身体中の疲労が薄く溶けていくような感覚に、いつの間にか救われている自分がいた。
……そういえば。
あれだけ重症だったイケメンアレルギーが、エリオット相手には一度も出ていない。
あんなに至近距離で、毎朝、唇まで触れているのに。蕁麻疹のひとつも出ない。
大学の頃は手を握られただけで腕が真っ赤になったのに、どうして。
――まあ、毎日浴びてれば耐性もつくか。花粉症だって人によっては治るって言うし。
深く考えるのはやめた。考えると、何か別の答えが出てきそうで怖かったから。
今朝も「行ってきます」と言った。
エリオットは「気をつけて」とだけ返した。最近、あの男の「行ってらっしゃい」には、以前のような軽さがない。短い言葉の中に、何か切迫したものが滲んでいる気がする。
気のせいだ、と思うことにした。
あいつの感情を察したところで、私にはどうすることもできない。自分の感情のことすら、もうよくわからないのだから。
わかっているのは一つだけ。あの部屋に帰れば、温かいご飯と、無駄に顔のいい同居人と、ピロリと鳴く相棒がいる。今はそれを命綱にして、この一週間を泳ぎ切るしかない。
§ § §
金曜日。
午前十時。異変が起きた。
黒田が、私のデスクにやってきた。
いつもの癇癪声ではない。不気味なほど静かなトーンで。
「如月。ちょっといいか」
付箋や怒声ではなく、直接来た。これは悪い知らせだ。六年の経験が、脊椎反射レベルで告げている。
「はい」
会議室に連れて行かれた。窓のない小部屋。蛍光灯がジジ、と嫌な音を立てている。テーブルの上には、印刷された資料の束が積まれていた。
「来週月曜の朝イチで、取引先への提案資料を出さなきゃいけなくなった」
黒田は腕を組み、資料の束を指で叩いた。
「この案件の全資料。見積もり、スケジュール、技術仕様、コスト計算。全部作り直し」
「……全部、ですか」
「先方の役員が変わったんだよ。前任者向けの内容じゃ通らない。ゼロベースでやり直せ」
私は資料の厚さを目で測った。百ページは超えている。ゼロベース、ということは、既存の資料は参照にはなっても流用はほぼできない。
「期限は月曜の朝八時。遅れたら……わかってるな?」
わかっている。この会社で「わかってるな?」は脅迫であり、命令であり、宣告だ。
黒田は腕時計をちらりと見た。この後の予定の方が大事だという顔で。人の週末を百ページで潰す通告が、この男の中では「ついで」の連絡なのだ。
「……わかりました」
他に何が言えただろう。
「ああ、あと。この件は他の誰にも振るなよ。お前が全部やれ。責任者はお前だ」
責任者は私。企画書を書いたのも、先方との窓口も、最初から全部黒田のはずだ。だが指摘しても意味がない。指摘した人間は、この会社では「自主退職」する。
会議室を出た時、足が少し震えていた。
§ § §
「先輩……大丈夫ですか?」
席に戻ると、白峰さんが心配そうな顔で覗き込んできた。あの涙ぐんだ大きな瞳を、こちらに向けて。
「あ、うん。大丈夫。ちょっと急ぎの仕事が入っただけだから」
「そうなんですか……。あ、あの、私にできることがあったら、いつでも言ってくださいね? 先輩にばっかり負担がいってるの、私すごく申し訳なくて……」
白峰さんの声は優しかった。本当に心配してくれているように聞こえた。
そう聞こえたから、つい。
「ありがとう。でも大丈夫、一人でやれるから」
なぜ、この言葉が口から出たのだろう。
大丈夫なわけがない。一人でやれるわけがない。百ページの提案書を、金曜の午前から月曜の朝までに。土日を全て潰しても足りるかわからない。
でも「助けて」と言えなかった。
白峰さんに助けを求めたら、今度は白峰さんまで巻き込んでしまう。この子はまだ若い。この理不尽に慣れてほしくない。
……それに。
「助けて」という言葉を、私はもう何年も口にしていない気がする。前世でも、今生でも。
§ § §
金曜の夜。フロアに残っている人間は、もう私だけだった。
蛍光灯の三分の二が省エネモードで消灯され、デスクの周辺だけが白く浮き上がっている。空調は切られており、三月の夜気がじわじわとオフィスに忍び込んでくる。指先が冷たい。
モニターには、作りかけのスライドが映っていた。
三十七枚目。百ページ中の三十七。進捗率は三割弱。残り二日で七十枚。
コーヒーは四杯目だった。もう味がしない。カフェインだけが胃壁を灼いている。
オフィスの静寂には種類がある。始業前の静寂は柔らかい。昼休みの静寂は気だるい。そして深夜の静寂は、耳鳴りに似ている。聞いているだけで、自分のどこかが壊れていく音がする。
キーボードを叩く。文字が並ぶ。消す。また打つ。消す。
……あれ。さっき何を書こうとしてた?
ダメだ。頭が、回らない。考えようとすると、考えの中身がすり抜けていく。ロジックが蒸発している。これ、脳の限界超えてる。
スライドの文字を三回読んで、三回とも意味が頭を素通りした。日本語のはずなのに。私が書いた文章のはずなのに。
ふと、消灯したモニターの端に自分の顔が映った。前髪が乱れて、目の下に影があって、口が半開きだった。誰、この人。
(……エリオットのお弁当、今日は食べられなかったな)
ふと、鞄の中の弁当箱のことを思い出した。
今朝、エリオットが「冷めてもおいしいように工夫した」と言っていた。煮込みハンバーグ、と。一瞬で現れる弁当箱は魔法製に決まっている。でも、彼が言う「工夫した」という言葉だけは、どうしても本物に聞こえた。昼休みに蓋を開けようとした。でも黒田の「月曜朝イチ」が頭から離れなくて、一口も入らなかった。午後になって「あとで」と思った。あとは来なかった。
今頃、鞄の中で冷え切って固くなっているだろう。
あの男は今夜も、私の帰りに合わせて夕食を仕上げるつもりでいるんだろう。何時になるかもわからないのに。……千里眼で見ているなら、せめて先に寝ていてほしい。いや、見ない約束だったか。
(ごめん、エリオット)
謝る相手が違う気がした。でも、今の私が「ごめん」と言える相手は、あの不器用な魔法使いしかいなかった。




