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前世で処刑された公爵令嬢、社畜OLに転生したら、処刑した魔法使いが専業主夫としてキスをせがんできます  作者: カクナノゾム


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13/74

13 56時間の資料地獄

 木曜日。


 あと二日だけ生き延びれば、週末が来る。

 それだけを支えに、蛍光灯の下でモニターに向かっていた。今週の残業時間はすでに三十時間を超えている。体感では三百時間だ。時空が歪んでいる。

 月曜の朝に「あと五日」と数え、火曜に「あと四日」と数える。そうやって一週間を消化試合にして、もう何年になるんだろう。


 朝のキスは、最近少しだけ慣れてきた。

 慣れてきた、というのは語弊がある。あいかわらず心臓は跳ね上がるし、エリオットの至近距離の美貌は脳に直接ダメージを叩き込んでくる。ただ、その後に訪れる不思議な温もり――身体中の疲労が薄く溶けていくような感覚に、いつの間にか救われている自分がいた。


 ……そういえば。

 あれだけ重症だったイケメンアレルギーが、エリオット相手には一度も出ていない。

 あんなに至近距離で、毎朝、唇まで触れているのに。蕁麻疹のひとつも出ない。

 大学の頃は手を握られただけで腕が真っ赤になったのに、どうして。

 ――まあ、毎日浴びてれば耐性もつくか。花粉症だって人によっては治るって言うし。

 深く考えるのはやめた。考えると、何か別の答えが出てきそうで怖かったから。


 今朝も「行ってきます」と言った。

 エリオットは「気をつけて」とだけ返した。最近、あの男の「行ってらっしゃい」には、以前のような軽さがない。短い言葉の中に、何か切迫したものが滲んでいる気がする。


 気のせいだ、と思うことにした。

 あいつの感情を察したところで、私にはどうすることもできない。自分の感情のことすら、もうよくわからないのだから。

 わかっているのは一つだけ。あの部屋に帰れば、温かいご飯と、無駄に顔のいい同居人と、ピロリと鳴く相棒がいる。今はそれを命綱にして、この一週間を泳ぎ切るしかない。


 § § §


 金曜日。

 午前十時。異変が起きた。


 黒田が、私のデスクにやってきた。

 いつもの癇癪声ではない。不気味なほど静かなトーンで。


「如月。ちょっといいか」


 付箋や怒声ではなく、直接来た。これは悪い知らせだ。六年の経験が、脊椎反射レベルで告げている。


「はい」


 会議室に連れて行かれた。窓のない小部屋。蛍光灯がジジ、と嫌な音を立てている。テーブルの上には、印刷された資料の束が積まれていた。


「来週月曜の朝イチで、取引先への提案資料を出さなきゃいけなくなった」


 黒田は腕を組み、資料の束を指で叩いた。


「この案件の全資料。見積もり、スケジュール、技術仕様、コスト計算。全部作り直し」

「……全部、ですか」

「先方の役員が変わったんだよ。前任者向けの内容じゃ通らない。ゼロベースでやり直せ」


 私は資料の厚さを目で測った。百ページは超えている。ゼロベース、ということは、既存の資料は参照にはなっても流用はほぼできない。


「期限は月曜の朝八時。遅れたら……わかってるな?」


 わかっている。この会社で「わかってるな?」は脅迫であり、命令であり、宣告だ。

 黒田は腕時計をちらりと見た。この後の予定の方が大事だという顔で。人の週末を百ページで潰す通告が、この男の中では「ついで」の連絡なのだ。


「……わかりました」


 他に何が言えただろう。


「ああ、あと。この件は他の誰にも振るなよ。お前が全部やれ。責任者はお前だ」


 責任者は私。企画書を書いたのも、先方との窓口も、最初から全部黒田のはずだ。だが指摘しても意味がない。指摘した人間は、この会社では「自主退職」する。


 会議室を出た時、足が少し震えていた。


 § § §


「先輩……大丈夫ですか?」


 席に戻ると、白峰さんが心配そうな顔で覗き込んできた。あの涙ぐんだ大きな瞳を、こちらに向けて。


「あ、うん。大丈夫。ちょっと急ぎの仕事が入っただけだから」


「そうなんですか……。あ、あの、私にできることがあったら、いつでも言ってくださいね? 先輩にばっかり負担がいってるの、私すごく申し訳なくて……」


 白峰さんの声は優しかった。本当に心配してくれているように聞こえた。

 そう聞こえたから、つい。


「ありがとう。でも大丈夫、一人でやれるから」


 なぜ、この言葉が口から出たのだろう。

 大丈夫なわけがない。一人でやれるわけがない。百ページの提案書を、金曜の午前から月曜の朝までに。土日を全て潰しても足りるかわからない。


 でも「助けて」と言えなかった。

 白峰さんに助けを求めたら、今度は白峰さんまで巻き込んでしまう。この子はまだ若い。この理不尽に慣れてほしくない。


 ……それに。

 「助けて」という言葉を、私はもう何年も口にしていない気がする。前世でも、今生でも。


 § § §


 金曜の夜。フロアに残っている人間は、もう私だけだった。


 蛍光灯の三分の二が省エネモードで消灯され、デスクの周辺だけが白く浮き上がっている。空調は切られており、三月の夜気がじわじわとオフィスに忍び込んでくる。指先が冷たい。


 モニターには、作りかけのスライドが映っていた。

 三十七枚目。百ページ中の三十七。進捗率は三割弱。残り二日で七十枚。


 コーヒーは四杯目だった。もう味がしない。カフェインだけが胃壁を灼いている。

 オフィスの静寂には種類がある。始業前の静寂は柔らかい。昼休みの静寂は気だるい。そして深夜の静寂は、耳鳴りに似ている。聞いているだけで、自分のどこかが壊れていく音がする。


 キーボードを叩く。文字が並ぶ。消す。また打つ。消す。

 ……あれ。さっき何を書こうとしてた?

 ダメだ。頭が、回らない。考えようとすると、考えの中身がすり抜けていく。ロジックが蒸発している。これ、脳の限界超えてる。

 スライドの文字を三回読んで、三回とも意味が頭を素通りした。日本語のはずなのに。私が書いた文章のはずなのに。

 ふと、消灯したモニターの端に自分の顔が映った。前髪が乱れて、目の下に影があって、口が半開きだった。誰、この人。


(……エリオットのお弁当、今日は食べられなかったな)


 ふと、鞄の中の弁当箱のことを思い出した。

 今朝、エリオットが「冷めてもおいしいように工夫した」と言っていた。煮込みハンバーグ、と。一瞬で現れる弁当箱は魔法製に決まっている。でも、彼が言う「工夫した」という言葉だけは、どうしても本物に聞こえた。昼休みに蓋を開けようとした。でも黒田の「月曜朝イチ」が頭から離れなくて、一口も入らなかった。午後になって「あとで」と思った。あとは来なかった。

 今頃、鞄の中で冷え切って固くなっているだろう。

 あの男は今夜も、私の帰りに合わせて夕食を仕上げるつもりでいるんだろう。何時になるかもわからないのに。……千里眼で見ているなら、せめて先に寝ていてほしい。いや、見ない約束だったか。


(ごめん、エリオット)


 謝る相手が違う気がした。でも、今の私が「ごめん」と言える相手は、あの不器用な魔法使いしかいなかった。

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