第25話パンドラの箱
――ついに、この日が来てしまった。
俺たちの運命が決まる日だ。
胸の奥に鉛を詰め込まれたような重苦しさが広がる。こんな朝を迎えたのは、母さんのことを思い出した日以来だった。
ペラッ――。
昨日はまともに見ることができなかった大会のパンフレットを開く。
窓から差し込む朝の光が、寝ぼけた頭を無理やり覚醒させていく。
「………………」
ルールは会場で直接発表される、か。
事前の準備や対策を完全に封じるためらしい。
「……嫌な予感しかしねえ」
胸の奥のざわつきは、一向に消えない。
何か取り返しのつかない出来事が、もう目の前まで迫っている。
気づけば、俺は会場へ向かって歩き出していた。
◇とある屋敷
「ククク……昨晩は存分に遊び尽くしたのぉ」
醜い肉塊のような身体を揺らしながら、ベッドから起き上がったのはウサだった。
周囲では、金で雇われた娼婦たちが疲れ切った顔で眠り込んでいる。
ウサはそんな女たちを一瞥すると、つまらなそうに鼻を鳴らした。
アイスゲームの開催者の一人であり、この狂った祭典の黒幕。それがウサだった。
出来レースとも知らずに、このゲームへ挑んでくる愚か者どもの顔を思い浮かべるだけで笑いが込み上げる。
あらかじめ仕込んだ駒に優勝させ、不老薬を奪い取るための筋書きは、すでに完成していた。
「いつものように、高みの見物といこうかのぉ……カハハハハッ!」
俗事はすべて影武者に任せる。
不老薬をすり替え、その場で飲み干す。それこそが最も確実な勝利の形だった。
仮に駒が敗れようとも構わない。
死期の迫った老体に残された敵は、もはや時間だけだった。不気味な笑い声が、広い屋敷の中へ木霊していく。
◇ ヴァロン酒場二階・フルールの私室
「ふぅ……」
私は小さく息を吐いた。
アイスゲーム祭りの当日は、朝から営業を始める。年に一度のかき入れ時。
だから私は、ロットさんの応援には行けない。イルテは風邪で休みだ。
事前に頼んでおいたアストレイア高等部の友人たちには全員出勤してもらう予定だった。
キャラミラも来てくれるか分からない。もし来なければ、今日は本当に人手不足になる。
気付けば、今日だけで何度目か分からないため息が漏れていた。
「……どうか勝ってください、ロットさん」
窓の向こうへ視線を向ける。
「そして……どうか、無事で帰ってきてください」
女神アストレイア様――。
私はそっと引き出しを開けた。そこには、オルゴールに似た箱が収められていた。胸元のネックレスへ手を伸ばし、繋がれた指輪を外した。
箱の中には、一枚の写真。
幼い頃のヴィア姉様。
ラグネル姉様。
そして、小さな私。
三人とも、幸せそうに笑っていた。
◇ アイスゲーム会場前・中央広場
まだ朝だというのに、村は異様な熱気に包まれていた。
広場へ続く石畳には無数の屋台が並び、焼けた肉の匂いに混じって、酒と香辛料の刺激的な香りが鼻を突く。
雪を踏みしめる音。
商人の怒鳴り声。
観客の笑い声。
村全体が、巨大な生き物のように脈打っていた。
――アイスゲーム。
祭り一色に染まる周囲とは裏腹に、俺にはこれが処刑台への行進にしか思えなかった。
「今年は誰が死ぬかねぇ」
「優勝候補はやっぱり世界企業勢だろ」
「それより、直前でルールが変更になったって噂だぞ?」
耳へ飛び込んでくる会話のすべてが、不吉極まりない。
俺はパンフレットを握り潰しそうになる手を必死に抑えながら、人混みをかき分けて進んでいく。
巨大な時計塔の下。そこが参加者の集合場所だった。針は9時45分を指している。
すでに数十人の参加者が集まっていた。こいつらが代表者か。思ったより、ずっと少ない。
重厚な甲冑を身に纏った騎士。
怪しげな魔術師風のローブ姿。
筋骨隆々の毛皮を纏った大男。
中には、まだ十代にしか見えない少女までいる。アストレイア中等部の制服を着ているが、俺の知るものとはデザインが異なる。
まるで本格的なコスプレ大会だ。
だが、参加者の誰もが肌がひりつくほどの緊張と高揚を浮かべていた。
「おい、見ろよ」
「あいつ男のくせに、アストレイアの制服を着てやがるぞ」
「数合わせの捨て駒か?」
蔑むような視線が、チクチクと肌を刺す。
……放っておけ。
俺は列の正面へ移動し、静かに深呼吸した。
――ゴォン。
時計塔の鐘が重々しく鳴り響く。
一瞬で広場が静まり返った。
次の瞬間。
会場中央へ設置された巨大なアイス結晶が、目を射るような蒼白色に発光する。
「皆様―――本日ハァッ!★」
拡声器によって不自然に響き渡る女の声。
顔に不気味な仮面を被ったピエロの司会者が、高台のステージへ姿を現した。
ドッ――。
観客の歓声が爆発する。
「待ちに待った! アイスゲーム祭りへ、ようこそォオ!♥」
クソうるせぇ……。
歓声が頭蓋骨の内側まで響き、朝から神経を削られていく。
黒と白を基調にしたピエロの衣装。
青いショートヘア。
頭には縦長のシルクハット。
どう見ても、うさん臭さ全開の十代の女だった。
「私、エムニッタちゃんが本日の進行をお送りいたしまーすッ!★」
司会者は大げさに両手を広げた。
「今年の参加者は総勢64名! 勝者に与えられるのは―――至高の秘薬ゥ!?★」
「そして栄誉!? 富!? 名声ェエ!?★」
観客が狂ったように熱狂する。やはり、不老薬は本当に用意されているらしい。
だが、その渦中で俺だけが妙な違和感を覚えていた。
……近い。
何か取り返しのつかない出来事が、もう目の前まで迫っている。
ねっとりとした嫌な予感が、胸の奥へべったりと張り付いて離れない。
「それでは!! 今年最初のゲーム内容を発表いたしマス!!★」
アイス結晶が激しく明滅する。参加者たちが、一斉に息を呑んだ。
やがて――。
空中に、冷気で編まれた巨大な文字が浮かび上がる。
【第一次選考:ブランカ村領域戦】
ドッと、地鳴りのようなざわめきが走った。
領域戦……だと?
「舞台は、ここブランカ村全体!」
「参加者諸君には、このアイスカードを用いて戦っていただきマス!★」
――アイスカード。
そこまでは予想通りだった。周囲のどよめきがさらに激しくなる。
「ルールは超簡単ッ!★」
「A、B、C、Dの4ブロック! それぞれ16名ずつに分かれた参加者の中で、好きな相手と戦うだけ!」
「そして、な、な、なんと! 勝者には、アイス結晶の中でもさらに希少な……」
エムニッタがわざとらしく間を置き、大声で叫ぶ。
「『セロコイン』を差し上げマース!★」
「一枚で千億の価値があるこのコイン! こちらを8枚集めた者だけが、エリア勝者として二次選考へ駒を進められます!」
そして――。
エムニッタは満面の笑みを浮かべた。
「なお、逃亡、棄権、ルール違反は即死刑デース!★」
静寂。
「……あ、ちなみに冗談じゃありません。本当に死にマス♪」
広場の空気が、一瞬で凍り付いた。
「場合によっては――その場で射殺しちゃいますので、ご注意を?」
誰一人として笑わなかった。
その瞬間だった。
観客席最上部。ひときわ豪奢な貴賓席のカーテンが、わずかに揺れた。
……気のせいじゃない。
背筋を氷でなぞられたような感覚が走る。誰かが見ている。値踏みするように。獲物を選ぶように。冷酷な視線。
俺は、この感覚を知っている。
学院の前で高級車に乗っていた男――ウサだ。
「それでは参加者諸君!!」
司会者が杖を天へ突き上げる。
「天国と地獄の祭典を始めようではありませんかァ!!★」
観客の怒号。
鳴り止まない鐘の音。
狂気のような熱気が広場を飲み込んでいく。
その中心で、俺は静かに拳を握った。
(ヴィア……アーサー……ディヴィ……見てろよ)
必ず暴く。
この狂ったゲームの裏も。
不老薬の秘密も。
ヴィアを奪った真実も――全部だ。
そして必ず、生きて帰る。
――アイスゲームが、今始まった。




