ユーフェミアの一言
ユーフェミアはパン屑を摘まみ、小鳥に放る。
その仕草は、世界の均衡に一切の波紋を与えない。
微風が芝を撫で、小鳥が跳ね、小さなくちばしがパンを啄む。
王子の鼓動だけが、異物のように荒い。
ゆっくりと——彼女は口を開いた。
「あなたが望む悪役は、
たぶんあなたの心の中にだけいるのよ。」
囁きにも似た声は、反論や挑発の兆しを欠いていた。
それは判決ではない。
物語構造の説明だった。
王子の肩が震える。
その一言は、剣でも魔法でもないのに——
これまでの演説や怒号が届かなかった場所へ
真っ直ぐ突き刺さっていく。
理解が遅れてやってくる。
悪役とは、誰かが名指しして成立する存在ではない。
“英雄譚”という枠組みが最初に要求する空席だ。
勇者がいるなら魔王が必要。
挑戦者には宿敵が必要。
勝利には敗北者が必要。
王子はそれを埋めるためにユーフェミアへ矢印を向けた。
視線も、言葉も、怒りも、すべてその空席に押し込むための燃料だった。
だがユーフェミアは空席に座らない。
役柄を受け取らない。
そもそも舞台の存在を認めない。
王子は気づく。
自分は剣を振るいに来たのではなく、
観客席を埋めるために悪役を捜しに来ただけだ。
舞台監督のいない劇団が、
照明も脚本も整わぬまま稽古を披露するように——
その滑稽さが、初めて自分の影を照らす。
膝の裏が冷える。
背筋を走るのは恐怖ではなく、恥辱の静電。
ユーフェミアの視線は王子を通り過ぎ、
鳥の羽ばたきや学生の読書に再接続される。
英雄譚は火種を失った。
悪役はどこにもいない。
ただひとつ——自分の内側にだけ存在していた。




