到着 ——「牧歌的平和との衝突」
王子は、ほとんど駆ける勢いで中庭を目指していた。靴音が石畳を叩くたび、廊下の空気が震え、周囲の生徒たちは思わず身を引く。彼の顔を一瞥した瞬間、道が自然と割れていく。
勇者王子――この学園でその名を知らぬ者はいない。彼の視線の先に何があるかは曖昧でも、誰もがその緊張だけは理解できた。
耳が拾ってしまう噂が、彼の背中を押し付けるように追ってくる。
──「今日、勇者王子が悪役に宣戦布告するらしい」
──「ユーフェミアを処断するのか」
ささやきは震え、期待に熱され、勝手に物語の続きを描いていた。
しかし、階段を降りて中庭へ足を踏み入れた瞬間、王子の肺に流れ込んだ空気は、熱とは程遠いものだった。
風は柔らかかった。陽光は穏やかだった。
ハンモックがゆるやかに揺れ、上級生がその中で本をめくっている。教師たちは丸テーブルを囲み、陶器のカップで静かな紅茶タイムを楽しんでいる。魔法生物の小鳥が芝生に降り、落ちたパン屑をついばんでいる。
そこに流れているのは、静音仕立ての平和。争いという言葉が、辞書から失われたかのような空気だった。
世界に裏切られたとき、人はまず疑う。目を細める。視界が誤りである可能性を探す。
王子も同じだった。中庭のどこかに、血塗られた挑発、冷たい視線、悪役が好む舞台装置――そういったものがあるはずだ、と探した。
しかし、そこにいたユーフェミアは、あまりにも拍子抜けする形で閑坐していた。
ベンチに腰掛け、足を組み、小さなパンを齧る。
口元は油断しきっており、視線は鳥に向けられている。
足元の芝には淡い魔法陣が広がり、乳白色の光をたゆたわせていた。
防御結界にしては薄すぎ、治癒魔法にしては怠惰すぎ、日傘の代替にしては意味がなさすぎる。
ただの“心地よさ”のために存在する魔法だった。
彼女は誰も待っていなかった。
勝利も、敗北も、演出も、対峙すら必要としていなかった。
王子の喉が強張る。声は刃物のように鋭く放たれるはずだった。胸に詰め込んだ怒りを爆ぜさせ、世界に衝撃を与える言葉になるはずだった。
――そうなるはずだった。
しかし、吐き出されたのは、乾いた息から零れ落ちたただの問いだった。
「……なぜ、来ない?」
その震えは怒りの震えではなかった。
役割の崩壊に対する戸惑いだった。
彼女が来るからこそ成立する決戦。
彼女が対峙するからこそ立ち上がる勇者。
彼女が悪役であるからこそ燃え上がる英雄譚。
それらすべてが、ユーフェミアのパン屑より軽い存在として、王子の足元に崩れ落ちた。
ユーフェミアは鳥に視線を向けたまま、パンをもう一口齧り、噛み終えたあとにようやく彼を認識するかのように首を傾けた。
「あなたが望む場所に、私がいなければならない理由がないもの。」
声は風の音に紛れるほど静かで、挑発の棘すらなかった。
ただの事実。
それが、王子の英雄物語に最も鋭い刃として突き立った。




