寮生活の描写 ——「完全な平穏の不気味さ」
学園寮の夜は、湖面のように凪いでいる。
窓から覗く芝生は均一な長さで刈られ、
歩道の照明は心拍数に合わせて柔らかく明滅する。
廊下に靴音はない。
笑い声も、泣き声も、ドアを乱暴に閉じる音も。
夜更かしゼロ。
争いゼロ。
羨望ゼロ。
心配ゼロ。
掲示板には誇らしげな数値が並び、
それを褒める言葉は誰の口からも出ない。
なぜなら、称賛という感情の揺れ自体が
余計な波形だからだ。
王子は三階の共有ラウンジを横切り、
ふと立ち止まった。
明かりは均一。
椅子は規則的に配置され、
テーブルには誰も置き忘れたカップ一つない。
本棚にある参考書は、使用後に必ず最適な順番で戻される。
「完璧」と言うことすら、ここでは騒ぎに等しい。
完璧はただ**“稼働状態の既定値”**であり、
誰も驚かないし、誰も喜ばない。
居室では、生徒たちが整然と談話していた。
談話、という言葉が正しいかどうか、王子には判断できない。
「本日の集中効率は98.2%。
次回の共同研究、よろしく。」
「了解。回復魔法への依存率は昨夜より0.4%改善。」
「素晴らしい。最適です。」
そこに笑みはある。
ただし、表情筋の運動という意味での「笑み」だ。
感情という音声が、そこにはない。
誰も語らない。
自分の愚かさも、悔しさも、焦燥も、
誰かに向けて吐き出す衝動も。
夕食の時間になっても変わらない。
ダイニングホールには
栄養最適化された料理が整然と並ぶ。
摂取量に応じ、皿の縁に光のリングが収束し、
足りない栄養素を示すと静かに点滅する。
生徒たちは、それを淡々と受け取る。
「鉄分が不足傾向です。摂取推奨。」
「助かる。」
助かる、という言葉だけが残る。
ありがとうではない。
感謝は“感情波形の乱れ”として抑制対象になる。
棚に戻す食器の音が、唯一の生活音だ。
ガラス同士が微かに触れ、透明なパルスを響かせる。
王子は階段の踊り場で足を止めた。
誰も怒らない。
誰も泣かない。
誰も絶望しない。
だからこそ、誰も語れない。
友を失った夜の痛み。
努力が裏切った日の悔しさ。
恋に破れた瞬間の醜さ。
人間の物語を紡ぐはずのそれらは、
寮の循環水槽に沈殿して、底砂のように眠っている。
人生は、出来栄えの良い業務日報へ収束する。
開始時刻、タスク、成果、改善値。
心拍の乱れは検知され、魔法で修正される。
愚かさは、もはや個性ではなくシステム不備だ。
王子の喉から、言葉にもならない息が漏れた。
これだけ静かなのに、
どこかで絶えず歯車が回っている音がする。
それはユーフェミアの魔法の鼓動か、
あるいは――
人間という物語を削り続ける巨大な粉砕機の音か。
彼はそのどちらかを確かめる勇気を、まだ持っていなかった。




