幸福指数の爆上がり ——「物語性の乾燥」
街は眩しいほどに平穏だった。
ユーフェミアの魔法が普及して、半年──。
自殺率は統計表から削除された。
保健省の役人は胸を張って「ついにゼロです」と記者団に告げる。
その声は自信に満ち、誰もが歓声を上げた。
学校は静かな水面のようだ。
休学は極小数値に圧縮され、教師は健康報告の提出すら忘れかけている。
「落ち込んだ」という言葉は死語になり、
それを口にしようとする子供たちは「語彙の誤用」として訂正される。
家庭では皿が割れる音が消えた。
職場では怒号が絶えた。
公共空間にあった苛立ちの煌めきさえ吸い込まれ、
空気そのものが緩衝材になったかのようだ。
幸福の数値は、画面上で安定している。
人類はついに幸福を**“達成し、維持する”**技術を手にしたのだ。
王子は、その画面をじっと眺めながら思う。
——これは果たして、生き物が触れていい色なのか、と。
世界に最初の異変が生じたのは、ほんの些細な瞬間だった。
若者の集うカフェで、誰かがぽつりと漏らした。
「昔さ、成績が落ちて……」
その空気が、薄く揺れた。
周囲の友人たちは顔を上げ、同じ疑問を投げる。
「回復魔法、受けなかったの?」
若者は瞬きする。
指先に残るはずの焦燥が、指紋ごと削ぎ落とされたかのように消えている。
「……忘れました」
カップに映る自分の顔は、磨かれた人形と変わらなかった。
語るべき痛みは記憶から抜け落ち、
何かを乗り越えたという実感は、ただの通信エラーに分類された。
「歴史とは痛みの履歴である」
その古びた言葉を、誰も引用しなくなった。
痛みが存在しないのなら、
人類はもはや“時間”を持ちえない。
友情も、恋愛も、そこから急速に揮発した。
心が揺れるから、関係は深くなる。
摩擦があるから、絆は修復され、強固になる。
だが、この世界に摩擦は存在しない。
嫉妬は危険値として即時に除去される。
別れは障害値として軽減される。
誤解は集中阻害として通知される。
軋む音にこそ宿るはずだった感情の影は、
ユーフェミア魔法の波形に吸われ、蒸発した。
友情は、ただの協働ユニットになった。
互いを支えるのではなく、互いの“負荷を計測しない”ための結合。
恋愛は、相性ではなく回復効率の共有によって成立する。
二人の心拍が揃えば婚約成立、乱れれば契約解除。
そういう時代になった。
王子は路地の影で呟く。
「この世界では、心は――
装飾品としてすら許されないのか」
指先で胸を押す。
そこに確かな痛みはない。
代わりに、魔法の静かな波紋だけが、骨の奥で響いた。




