王子という異物の想起
指先が鏡面から離れた瞬間、エリーの脳裏にひとつの影が差し込んだ。
息苦しい校内規範の中で、ただ一人だけ笑っていた男。
完璧に調整された空気へ、毒のような呼吸を吹き込む存在。
“王子”。
彼は誰からも慕われない。
試験成績も悪く、授業態度は悪辣で、規範遵守のレベルは測定不能。
笑えば人を馬鹿にしているように見え、沈黙していても威圧感を放つ。
教師たちは彼を矯正しようとし、学生は彼を避ける。
しかし彼だけが、堂々と“悪役である自由”を持っていた。
エリーは目を閉じた。視界の奥に、あの軽薄な笑みが浮かぶ。
彼は制度の悪意を測ろうともしない。
善意の医療プログラムにも、癒やしのサポートAIにも興味を示さない。
ただ、与えられた秩序そのものを面白がって壊す。
「……彼だけが」
脳裏の言葉が、喉を通り、唇で形になった。
「物語の“悪”を作ってくれるかもしれない。」
善は強い。
ユーフェミアの“救済”は、反論の余地を奪うほど完璧だ。
ハーミスの警告は正確だった。だが彼は倫理の内側に留まり続ける。
教師たちの視線は、いまや“回復された者”にしか注がれない。
エリーの恐怖や喪失を、誰も“未治療の症状”とは考えない。
共感では足りない。
慰撫では届かない。
必要なのは破壊だ。
制度ごと叩き割る、乱暴な衝動。
理性を失ってなお、存在を証明できる爪痕。
教師でもない。改善された生徒でもない。
“善意の外側”に立てる人間。
――それが、王子。
エリーはゆっくりと息を吸った。
胸の奥に、久しく忘れていた熱が灯る。
恐怖でも怒りでもない。もっと悪辣で、もっと愚かで、もっと人間的な火種。
彼に会わなければ。
この学園にただ一つ残された“物語の反作用”。
自分を、たぶん破壊してくれる存在。
エリーは、立ち上がった。




