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ユーフェミアは今日も眠い。  作者: 南蛇井


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逃走か抵抗か ― 崩壊する選択肢

エリーは廊下を駆け抜けた。足音が胸に跳ね返り、呼吸が荒くなっていくほど、心は冷えていく。

 整然と整った白い扉を押し開け、自室へ滑り込む。誰にも見られていない。見られてはならない。今の彼女は、まだ“未完成の回復者”なのだから。


 鏡の前へ立つ。

 いつも通りの長いまつ毛。整った瞳。潤いのある肌。誰かが調整したかのような均衡。

 エリーは指先で頬を押す。――そこに映るのは、“症状の消えた患者”。それ以上の何者でもない。


 悩みの輪郭は霞んでいる。怒りは不自然に静まっている。欲望は石のように冷たく固まっている。

 感情の根が切り取られ、栄養を与えられた植木のように、ただ形だけが残っていた。


「……嘘でしょ」


 声は震えた。喉奥をこすって擦れた音が漏れただけだった。

 ここ数日で何度も感じていた違和感――怒りの沸点に手が届かない。悲しみの奥行きへ潜れない。まるで心の底へ降りる梯子が、知らぬ間に抜き取られている。


「このまま“治されて”いけば……」


 鏡の中の少女は、淡々と微笑む“理想的な患者”だった。

 震える肩の動きだけが、彼女がまだ人間である証拠のように見えた。


「私は私じゃなくなる。」


 吐き出した瞬間、言葉は鏡に弾かれて返ってきた。

 それは恐怖ではなく、確認だった。もう半分、すでに失われている。


 


 ――逃げる?

 どこへ?


 学園の外は、完璧に回復した者だけを歓迎する社会だ。

 “治療の済んだ弱者”は英雄と称えられ、賞与を与えられ、花束で出迎えられる。

 欠けたまま逃げ出した者に残るのは、疑念、検査、そして再治療の通知。


 


 ――抵抗?

 何に対して?


 彼らが差し向けてくるのは暴力ではない。

 痛みを消す手、孤独を癒やす薬、悲しみを取り除く音声プログラム。

 人類史上もっとも優しい攻囲。

 それに刃を向ける者を――誰が英雄と呼ぶだろう。


 


 エリーは膝を抱えた。

 敵はどこにもいない。だから打ち倒すべきものもない。

 ただ、彼女の内側から静かに削られていく“自分”だけがある。


 


 その時初めて、彼女は理解した。

 ――敵の不在こそが、最大の絶望なのだと。

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