余波 ― エリーの異変
翌朝から、エリーは別人のようになった。
短い前髪を指先で整えながら、彼女は鏡の前で微笑む。
その微笑は、鏡に映る自分へ語りかけるというより、**「出来上がった結果」**を確認するための儀式だった。
頬には健康的な血色が戻り、目の下の影は跡形もない。
教室に入った瞬間、歓声が湧いた。
「エリー! 顔色良くない?」「すごいね、その報告書!」
「試験も調子いいって?」「奇跡じゃん!」
彼女は照れ笑いを浮かべ、軽く頷く。
肩に積もっていたはずの焦燥も、不安も、昨日までの重い自責も――
すべて霧散している。
奇跡の回復。
誰もがそう呼んだ。
だが、彼女の瞳は空白だった。
授業中、ノートを取る指先は機械のように滑らかだった。
つまずくはずの箇所で思考は止まらず、解法は自動的に脳裏へ浮かぶ。
周囲の歓声は、まるで遠くの海鳴りのように響いている。
エリーはふと、胸の奥を探る。
(私……何に悩んでいたっけ……?)
必死に思い出そうとすると、脳の奥で何かが軋む。
そのたびに黒い布で心を覆われるような、**「考えなくていい」**という甘い圧が押し寄せた。
息を吸う。
肺は軽い。
身体は完璧に整っている。
だが――
(……眠っていたい……ずっと……)
それは疲労の眠気ではない。
逃避でもない。
ただ、醒めていること自体が不要だという静かな誘い。
教員は喜んだ。
親友は泣いた。
成績は跳ね上がり、生活態度は規範そのもの。
だが彼女自身の胸の内には、**“なぜ回復したのか”**という問いが存在しない。
問いを発する機能そのものが摘み取られている。
心の自律神経が外部の手によって切断されたかのような感覚。
感情は痛みなく整理され、傷跡は磨耗し、価値だけが均一化された。
心は回復できても――
尊厳は回復不能なのだ。
それを理解できる者は、彼女自身を含め、学園にほとんどいなかった。




