ただ一人、目覚めている者
ハーミスだけが倒れなかった。
廊下に横たわる教師を跨ぐたび、
その事実は鈍い罪悪感となって胸に積もる。
自分は今、世界の眠りから外れている——
それは恩恵からの除外に近い痛みだった。
理由は明確だ。
彼の左腕に埋め込まれた黒鉄の義肢。
――《治癒制御の緩衝インタフェース》。
かつて事故患者の暴走再生を抑えるために作られた遺物。
強制治癒魔法を減衰させる拒否の刃。
皮膚の下で魔力が跳ね返る音がする。
自転する機械歯車の微振動が骨を刺激し、
睡魔を溶かす冷たい脈動が二の腕から肩へと這い上がる。
横倒しになった寮母の額に触れ、
呼吸を確認する。
健康。規則正しい。
——ただ、完全に沈んでいる。
次の教室。
机に突っ伏した生徒たちの頬は
ひどく穏やかだ。
戦い抜いた後の勇者ではなく、
疲労という概念から解放された聖者の顔。
ハーミスは吐き捨てるように呟く。
「……これは治癒じゃない」
声が自分の耳にだけ届く。
廊下は深海のような静寂に閉ざされていた。
「環境書換魔法だ」
義手が微かに青白く発光するたび、
目の奥に焼き付いた研究資料が反射的に思い出される。
臓器単位ではなく、“環境そのもの”を最適値へ強制補正する術式。
患者を治すのではなく、患者の周囲に最適解を押し付ける魔法。
足元に転がっている学習用の魔導端末が
自動的にスリープへ移行する。
まるで意思を持ったように。
ハーミスは歯を噛み締める。
「生体を外部値に合わせて“丸ごと修復”するやつだ……!」
声は震えた。
恐怖ではない。
理解に追いついた瞬間の確信だった。
治癒の名を借りた暴力。
疲労・焦燥・葛藤・プレッシャー——
学生の精神を形成する教育的ノイズが、
丸ごと削ぎ落とされている。
ただ眠ればよい。
ただ回復すればよい。
人間ではなく状態として扱われる快適な端末群。
ハーミスは壁に手をついた。
指先の感覚が冷たい。
世界の温度がユーフェミアに最適化されたせいだ。
眠りは優しさではない。
それは絶対解の布告だった。
そして今夜、彼以外の全員はその命令に従っている。
彼の息だけが、
巨大な沈黙の空洞の中で
不格好に、場違いに、
生存者の証拠として響いていた。




