火種 ― 言葉の衝突ではなく“役割の崩壊”
温室は夜露を抱き、硝子に濡れた月が滲んでいた。
ユーフェミアは薬草の葉を一本ずつ摘み取っている。光の環に浮かぶ横顔は、いつものように穏やかだ。そこにエリーは立っていた。吐息が白い。声は低く、しかし何かを切り裂くために研がれた刃のように震えていた。
「……あなたは知らないの」
ユーフェミアは葉先の水滴に視線を寄せたまま、振り向かない。聞いている。だからエリーは続ける。呼吸を整えるように、自分の心臓を握り直すように。
「あなたは私に“残酷な優しさ”を押し付けてる。
苦しむ権利を奪ってるのよ」
温室を切り裂くような沈黙。
それは言葉の衝突ではなく、役割の崩壊の始まりだった。
被害者であることは、エリーにとって唯一の秩序だった。
その役割にしがみつくことで、踏みにじられた過去は意味を持ち、痛みには形が与えられ、彼女は「傷を負った者」として生き延びてきた。
ユーフェミアはやっと手を止める。小さな摘み籠を慈しむように抱え、首だけを傾けた。
「……苦しむ“権利”? 面白い言い方ね」
その声音は、日向水のように平らだった。
慰撫でも拒絶でもない。そこには判断がない。
ただ理解の必要を感じた誰かの口調。
エリーの喉が詰まる。怒りではない。恐怖でもない。
理解されないという確信が、言葉より先に肉体を凍らせる。
ユーフェミアは小さく瞬きをし、再び薬草に目を落とす。
「……それがあなたの健康に必要なら、考えてみるわ」
「違うのよ」
エリーはうめく。叫びにはならない。
なぜなら叫びは届くことを前提にするから。
エリーは知っていた。この人には届かない。
「必要とか、健康とか……そうじゃない。
私は……傷ついた私のままでいたい時があるの。
立ち直れないまま、うずくまってたい夜があるのよ。
それが私の居場所なの。あなたはそれを奪う」
ユーフェミアは指先で葉の裏を撫でる。
虫食いのある葉を選んで摘み取るらしい。
弱い部分を取り除き、強い部分を残す、ただその作業を繰り返す。
「あなたが痛いなら、薬をあげる。
眠れないなら、毛布を貸す。
立てないなら抱えて帰る。
……それだけの話よ」
慈悲ではない。彼女の世界における当然の処理。
そこに相手の物語は存在しない。
エリーは気付く。
怒りの矛先を見失う瞬間の、あの眩暈に似た感覚。
踏みつけられているのではない。
踏みつけるという概念を知らない人間に出会ってしまったのだ。
「……それが残酷なのよ」
エリーの声は霧散する。
泣きたいのではない。泣けば、彼女の慈しみに包まれてしまう。
その未来が何より恐ろしい。
ユーフェミアは黙って、傷ついた葉を籠に落とす。
やさしい音だった。




