6話 礼儀作法は、最強の盾である
「父上、少しお願いがあるのですが」
ある日の午後、お茶の時間を見計らって書斎を訪ねた。
「どうぞ」
「礼儀作法を、学びたいのです」
言いながら、少し緊張していた。理由を聞かれたら困る。でも父は眉をわずかに上げただけで、何も聞かなかった。
そのまま沈黙が続き、書類をめくる音だけがする。
「……そうか」
それから少し間があって、父が顔を上げた。
「なら、ついでに王都へ来るか」
「え」
「フェリックスの成人に合わせて、私も勤めが始まる。拠点は下宿になるんだが、そこの主が、フェリックスに礼儀作法やを教え、教養をつけてくれた方でな。願い出てみることはできるだろう。週の半分程度は王都に、残りは領地に戻る形になるだろう。お前もそれに合わせて通うことになるが」
思ってもみない展開だった。王都。父と同じ屋根の下。
「……はい。願ってもないお話です」
気づいたら頷いていた。
なんだか胸の奥がじんわりした。
* * *
パンシオンは、石畳の通りに面した縦長の建物だった。
四階か、五階か。
領地の屋敷なら横に広がるところを、ここでは上に積み上げていて、王都らしい建て方だ。
外壁の彫刻は煤で黒ずんでいたが、石畳は掃いてあった。
1階の窓には鉄格子が嵌まっている。表札も看板もない。
家紋があったであろう場所が、削り取られていた。
ただ、周囲の建物と比べると、手が入っているのがわかる。
タウンハウスを持たない貴族や、王都に長く滞在する必要のある者が使う、高級な下宿だとアルノーは聞いていた。
父が扉を叩くと、小間使いが出てきて、二人を中に通した。
言葉は流暢だったが、発音がどこか違ったから、異国の出身なのかもしれない、とアルノーは緊張しながら考える。
花が飾ってある。領地でも見たことのない、白い小花だ。
どこか見慣れない調度品がたくさんあった。トゲのある植物をモチーフとした精緻な象嵌細工に縁取られた、直線的で重厚な黒い木の家具が強い存在感を放っていた。
「モレル子爵、お待ちしておりました」
声がした。
廊下の奥から、女性が歩いてくる。背筋が伸びていて、歩く音も立てない。アルノーの知る範囲でだが、この国では珍しい、黒い服だった。装飾は少ない。でも素材が、違った。光の当たり方で、布の質がわかる。見たことのない深い黒だった。
「夫人、こちらがお伝えしていました私の次男です。……さあ、アルノー」
父の紹介を経て、夫人の視線がアルノーに向いた。
アルノーは、つい背筋を伸ばした。見られているというより、測られているような気がした。悪意はない。ただ、静かに何かを確かめている。
アルノーは父や兄に教わった通り、最敬礼をしてから名乗った。
「アルノー・モレルと申します。お初にお目にかかります、夫人」
「知っていますよ」
夫人が微笑んだ。
「フェリックスによく似ているわ。でも、目が違う」
「……目、ですか」
「もっとせわしない目をしている」
アルノーは返答に詰まった。父が何も言わなかった。助けてくれる気はないらしい。
「礼儀作法を学びたいと伺いました。理由を聞かせてもらえる?」
「立ち居振る舞いが、人の印象を変えると思ったのです」
「それだけ?」
「それだけです」
そう、それこそが降りかかる野次や罵声を減らし、当日取り乱さないためのと盾になると信じている。それだけなのだ。
夫人がアルノーをもう少し見た。それから父を見た。父が静かに頷いた。
「……よろしい。丁寧な挨拶ですね、アルノーさん。私の姓は、すでに歴史の波に飲まれて消えました。 ですから、 この館では単にエレーヌ夫人とお呼びなさい 」
「ありがとうございます」
夫人が満足そうに頷き、父に向き直った。
「滞在の件ですが」
「はい」
「週の半分程度というお話でしたね。であれば、特別に寝台を一台入れておきましょう。その代わり、空いている時間はリネンの整理でも手伝っていただきましょう」
アルノーは少し目を輝かせた。
寝台一台、家とは違う部屋、そして間借り。……今までにない経験だ。
「父上と同じお部屋に、ですか」
「そうです」
「私のベッドを——」
「父上こそちゃんと休んでください」
「……」
「体が資本です。書類仕事だって体力がいります」
父が何か言おうとしてやめるのを見て、夫人が小さく笑った。
「話が早くて助かりますわ」
父の部屋は、こぎれいだった。
長年使い込まれた無骨な備え付けの家具が、きちんと並んでいる。机。椅子。寝台。窓際に小さな棚。
父が鞄を置いた。旅支度の鞄一つ。
……少ない。
思ったが、口には出さなかった。
殺風景な部屋だから、窓際の棚に、小さな額縁があるのがいやに目についた。
近づいてみると、それは家族四人の肖像画だった。父と、母と、フェリックスと——赤ん坊の、自分。
母が笑っている。
……そうか、こういう顔で笑う人だったか。
知らなかった、というより、忘れていた。いや、最初から知らなかったのかもしれない。アルノーが覚えているのは、ベッドの上の母だ。何かの病気になって、動けなくなった母だ。早く良くなればいいのに、と思っていた。
肖像画の中の父は、今より少し若い。フェリックスはまだ子供で、母の隣で笑っている。
……いいな。
単純にそう思った。赤ん坊の自分には、何もわからなかっただろうから。
「もし体力が余っているなら、少し街を見てこい」
と父が言った。
「帰りの馬車の乗り場も確認しておくといい。これから何度も使うことになる」
「……はい」
「迷子になるな」
「なりません」
「ジルがいるからな」
アルノーは少し笑った。
* * *
夕方、オーギュストが仕事の下見から戻ってくると、部屋に簡易寝台が一台増えていて、その上でアルノーが眠っていた。
街を歩き回って、疲れたのだろう。靴だけ脱いで、上着もそのままで、健やかに寝ている。
オーギュストはしばらくそこに立っていたが、やがてそっと手を伸ばし、眠っているアルノーの頭を一度だけ、撫でた。
起こさないように。気づかれないように。
肖像画の中の、赤ん坊の顔と今の顔とを見比べると、オーギュストは静かに椅子を引いて、積み上げた書類を広げた。
窓の外が、暮れていく。
* * *
アルノーは、ずっと眠っていた。
夢の中で、誰かの手のひらがあった気がした。あたたかかったので、そのまま眠り続けた。




