19話 名もなき花の帰還(エレーヌ夫人・回想)
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遠い日の残像
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カスティラ帝国の首都、エストレージャの陽光は、このガリア王国のものよりずっと刺すように鋭かった。
皇女であった母の面影を残す私は、かつて「ド・アラゴン」という姓とともに、その眩い光の中にいた。しかし、祖国を吹き荒れた粛清の嵐は、私のすべてを奪い去った。
政略結婚の夫とは離ればなれになり、私は「失ったもの」としてその姓を捨てた。
ただの「エレーヌ」として、隣国ガリアのシャンブル侯爵を頼り、亡命の身となったのである。
逃亡のさなか、私を護送してくれた商人の夫婦がいた。彼らは検問で時間を稼ぐために命を落とした。彼らには幼い息子がいたはずだ……その罪悪感は、何年経っても私の胸に澱のように沈んでいた。
救いは、寄寓したモレル領で出会った五歳の少年、フェリックスだった。
「先生、髪の色が父様と似てるね!」
人懐っこい笑顔で私の指を握ったそのぬくもりに、凍てついた心がどれほど救われただろう。
彼を立派な紳士へと育て上げ、デビュタントを見届けた後、私は王都サンテミリオンでパンシオンの女主人として、静かな余生を送るつもりだった。
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嵐を呼ぶ少年
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しかし、私の穏やかな隠居生活は、フェリックスの弟――アルノー・モレルの登場によって一変した。
オーギュスト様が仕事のために私のパンシオンへ入居し、そこで預かることになったアルノーさんは、「奇妙な少年」だった。
まず驚かされたのは、彼の服装だった。
彼が自ら注文したというその装いは、近年のガリアで持て囃される、飾り立てた流行など歯牙にもかけない。ただ一点、己の美学のみを貫いている。
余計な装飾をすべて排した「白」は、かつて私が祖国の宮廷で目にした、厳格なまでに高潔な帝国古風の貴族様式を彷彿とさせた。所作を身につければつけるほど、布の動きが彼の優雅さを体を際立たせ、計算し尽くされた意匠の妙を感じさせる。
――これほどまでに誰の評価にも左右されない何かを持つ少年を、私は見たことがなかった。
そして忘れもしない、彼がジュスティス館の見学から帰ってきたときのことだ。
へろへろになって帰ってきた彼が、疲れた顔のまま静かに言った言葉。
「楽しそうに見に来てる人たちの気持ちが、全然わからなくて」と。
帝国の血なまぐさい宗教裁判を見てきた私にとっても、処刑を見世物として消費する空気は耐え難いものだった。
だが、この国の貴族として育った少年が、それらについての否定的な意見を、それも「衛生面」や「効率」という独自の切り口で語るとは。
(この子には、何か……見所があるわ)
私は確信し、パトロンであるシャンブル侯へ報告した。
同時に、私自身もお茶会などの社交の場で、彼に同調するように「処刑を見世物とする野蛮さ」を上品に説いて回った。 少年と私が、静かに、けれど確実に王都の空気を変え始めていたのである。
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「エレーヌ」という名の再会
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ある日の午後、モレル領に帰るとパンシオンを出たはずだったアルノーさんと、小間使いが入り口で話している声が聞こえた。
この二人ならば問題はないと判断し声をかけたところ、彼はどこか誇らしげに、帝国の最新品種だというヴェルメイユの茶とジャムを差し出した。
「今の僕がその答えとして持ち寄れるのは、これくらいなのですが。お口に合えば嬉しいです」
中身を確認した瞬間、私は息が止まるかと思った。 カードに書かれていたそのヴェルメイユの品種名は――「エレーヌ」。 かつて帝国の王宮で、私の父が愛娘である私のために作らせた、私の名を冠した花。亡命以来、二度と目にすることはないと思っていた、私の魂の一部だ。
さらには、事もあろうに「執行人頭」の男を従えていた。 普通ならば卒倒しかねない光景だが、彼は「腕も人柄も信用できる」と紹介までした。
彼は、私が何者であるかを知っている。 帝国の内情を調べ上げ、私の出自を察した上で、この名前を私に「返した」のだ。 執行人――人体の構造に最も詳しく、ある意味で最強の護衛となり得る男を伴って。
もしわかってやっているのなら、これは「私は貴女のすべてを守る用意がある」という、最大級の配慮に満ちた示威である。
「ありがとう。大切にいただくわ」
そう答えるのが精一杯だった。
どこか抜けた笑顔を浮かべている少年を見る。本当に、不思議な子だった。
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重荷を下ろすとき
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彼がもたらした奇跡はそれだけではなかった。彼が始めた「生活改善請負所」の実務を仕切る若者、ヤン。彼こそが、あの時私を逃がすために犠牲となった商人夫婦の息子であった。
シャンブル候に急ぎ手紙を送り、会うための手筈を整えてもらう。あの二人の子供のことを気にかけていたのは彼も同じだったから、すぐに場は整い、私は彼と対面することができた。 彼の手には、シャンブル侯が「借りていたもの」として返却した、彼の父の形見である懐中時計があった。 私は、ヤンの目を見て、何年も喉に詰まっていた言葉を解き放った。
「あなたのご両親は、信頼に足る方々でした。私はそれを、ずっと知っていました」
謝罪ではない。彼らの誇りを認めること。それが、私にできる唯一の手向けだった。ヤンが静かに頷いたとき、私の心にこびりついていた影が、ようやく陽光に溶けていくのを感じた 。
さらに、ヤンとの対面で得られたアルノーさんの実像は、私の想像を遥かに絶するものだった。 彼はヤンの人生に再び光を灯したばかりか、見捨てられた民に職を与え、忌まわしき「死神」と蔑まれる執行人の名誉すらも、その双肩に背負おうとしていた。 多くの大人や傲慢な貴族たちが見て見ぬふりをしてきた国の膿に、当時わずか十三歳の少年が、たった一人で挑んでいたなどと、一体誰が想像し得ただろう。
彼は間違いなく、この腐敗した時代が遣わした聖人だ。
その場で、シャンブル侯と私は、視線だけで一つの誓いを交わした。彼の功績、そのあまりに眩い魂の軌跡を、この国の隅々にまで知らしめなければならない。
それからは、準備のために目まぐるしい日々で、アルノーさんには一度領地へ戻っていただくことになった。
準備の最中、侯爵に任せていた招集の手配について、使者への指示を確認したところ、「『栄誉をお渡しする』と伝えさせた」とおっしゃった。
手紙の中身を伺えば、日時と場所、それに署名だけ。
……モレル家の皆様のことが少し心配になったけれど、装飾を排したあの真っ白な服を纏い、超然と歩く彼ならば、どのような舞台であっても、その誉れに恥じぬ……いえ、全ての者を跪かせるほどの振る舞いを見せてくれると、私は確信している。
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新しい季節の始まり
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そして、運命の日 。アルノーさんは、教えた通りに口元には絶えず笑みを湛え、美しくも静謐を湛えた佇まいでその場に集まった皆を魅了した。
装置については、彼が喜ばないだろうと侯爵にお願いし、午前中のうちに式典の別の演目として先に披露してもらっておいた。
シャンブル侯が「せいぜい役に立ってもらおう」と、彼なりの不器用極まる期待を口にするたびに、アルノーさんが目に見えて縮み上がるのが可笑しくてたまらない。
ああして戦慄いているのは、きっと侯爵との面識が浅く、彼がひどく口が悪くて、常に誤解を招く物言いをする御方だということを知らないがゆえの、初々しい反応なのだろう。
けれど、心配はしていない。
アルノーさんは、じきに彼の父を通じて、あるいは彼自身の鋭い洞察力で、侯爵の言葉の裏に隠された真意と深い慈愛に気づくはずだから。
パンシオンに戻り、一人で「エレーヌ」の茶を口に運ぶ。 かつてその名は、失われた過去の象徴だった。
けれど今は違う。
この国で、一人の少年の奔走によって、新しい意味を持って咲き誇っているのだ。
エレーヌ、と父は呼んだ。今もこの国で、その名前の花が咲いている。
私は、かつてよりも少しだけ明るくなった鏡の中の自分に、優しく微笑みかけた。




