第36話 光と闇
おそるべき闇の怪物が、地響きを立てながら近づいてくる。
ラーズは足を負傷しているウォーレンにトーキルの守護を任せ、たったひとりで敵の正面に飛び込んだ。
超巨大怪物の周囲には蜘蛛型の怪物が二十体近くいる。まともに戦えば、あっというまに取り囲まれてしまう。となれば、とにかく動き回って引き付けるしかない。
ラーズは挑発するように剣を掲げて怪物どもの前を駆け抜ける。
ところが、怪物どもはラーズには見向きもせずに直進を続けた。どうやら奴らにとって人間は倒すべき敵ではなく、路傍の石ころと同じ扱いのようだった。
(ならば、無視できなくさせてやる!)
ラーズは先頭を行く蜘蛛型の怪物と並走し、横から攻撃を仕掛けた。
虫のような節くれだった前足に剣を叩きつける。硬皮に覆われた足は予想以上に硬く、刃は簡単に弾かれてしまった。
ただ、そこで初めて怪物が反応を示した。反撃とばかりに先の尖った前足を振り下ろしてくる。
ラーズはそれを身を捻って躱し、そのまま決死の覚悟で胴体の下に飛び込んだ。そして下から腹部に思い切り剣を突き立てる。
怪物から「ぶろろろろ」という不気味な悲鳴があがった。
効いている――そう判断したラーズは、二度、三度と剣を腹部に突き入れた。傷口から血なのか体液なのかわからないどろどろした液体が降ってくる。
怪物の前進が止まり、その巨体がぐらついた。
ラーズは押しつぶされる前に下から飛び出すと、今度は穴が三つ空いている顔面に剣を突き刺した。
すると、断末魔の悲鳴と共に傷口から瘴気が吹き出した。
転がるように距離を取り、素早く体勢を立て直す。
幸い、追撃はなかった。
蜘蛛の姿をした怪物は突っ伏した状態で動かなくなっていた。
代わりに、近くにいた数体の怪物が殺到してくる。同胞を殺されたからか、今度は明確な殺意を持っているようだった。
「よし、来いッ!」
ラーズは怪物どもに背を向けて全力で駆けだした。
蜘蛛型の怪物は見た目の印象通り、知能はあまり高くないようだった。光に吸い寄せられる虫のごとく追いかけてくる。
ラーズは次々と繰り出される前足の攻撃を懸命に躱しながら、寄ってくる怪物どもの間を縫うように駆け抜ける。
夢中になって人間を追いかけ回していた怪物どもは、長い前足が互いを邪魔しあってもつれるように転倒した。
だが、ラーズもそこまでが限界だった。
ふいに身体が重くなり、その場にくずおれる。
いつのまにか巨大怪物がすぐ近くにまで迫っていた。根のように生えた無数の触手を動かして這うように移動してきたのだ。その触手一本一本から吐き出される大量の瘴気は、もはや人が耐えられる濃度の限界を超えていた。
巨大怪物の頭部に生えた触手の一本が、勢いよく振り回される。
咄嗟に躱せないと判断したラーズは剣で受けるも、丸太のように太い触手の威力はすさまじく、衝撃で二十メートル近くも吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。
痛みのおかげで、意識は失わずに済んだ。
だが、身体はもう動いてくれなかった。
瘴気の毒が全身に回っていた。吐き出した血の量が、取り返しのつかないところまできていることを教えてくれた。
怪物どもは、もはやラーズのことなど眼中にないとばかりに移動を再開する。
当然、向かう先にはウォーレンとトーキルがいた。
「きやがれ、バケモノどもッ!」
ウォーレンが果敢に立ち向かう。
これまでのラーズの戦いぶりを見ていた彼は、すぐさま蜘蛛型の怪物の懐に飛び込み、下から剣を突き立てて胴体を真っ二つに斬り裂いた。
だが、すぐに他の怪物どもが押し寄せてきて、ウォーレンは一瞬で取り囲まれる。
負傷した足では、次々と繰り出される前足を避けることは不可能だった。
太ももと肩を貫かれ、動けなくなったところへ最後は胸を一突きにされた。
「おれを……なめるんじゃ……ねぇッ!」
心臓を貫かれてなお、勇敢な騎士は最期まで戦おうと剣を振り上げた。
しかし、蜘蛛型の怪物はまるで付着したゴミを払うように前足を振ってウォーレンを宙に放り出した。
ウォーレンの身体が水面を跳ねる石のように勢いよく地面を転がる。ようやく止まると、彼はぴくりとも動かなくなった。
それを見た瞬間、ラーズの中で何かが切れた。
咆哮を上げ、全身の骨がばらばらに砕け散ってもかまわないとばかりに力をこめる。
だが、やはり身体は動かない。
目が眩むほどの怒りでさえ、死に瀕した肉体を蘇らせる力にはならなかった。
怪物どもは、今度はトーキルのもとへ殺到する。
彼が殺されれば、その時点で終わりだった。
動け、動いてくれッ――ラーズは声にならない絶叫をあげた。
そのときだった。
指先がなにかあたたかいものに触れるような感覚があった。
見ると、右手の人差し指にロウソクの灯火のような小さな光が灯されていた。
一瞬、幻覚かと思った。
だが、光は瞬く間に広がり、ラーズの全身を包みこんだ。
(こ、これは……)
どういうわけか身体が動くようになっていた。いや、そんな言葉では生温いほどの凄まじい力が全身に漲る。
ふと、ラーズは別れ際にコルウィンに指先を握られたことを思い出した。
(まさか、あのときに……?)
真相などどうでもよかった。
身体が動くのならば、やることはひとつだった。
ラーズは落ちていた剣を拾うと、地面を蹴って怪物の群れに突撃した。
背中に羽が生えたかのように身体が軽い。自分の身体が自分のものではないようだった。
手にした剣が眩い光を放つ。
光の剣――。その刃が軽く触れただけで、あれだけ硬かった怪物の前足が枯れ木のように折れ、塵となって消し飛んだ。
残った蜘蛛型の怪物が一斉に進路を変え、襲い掛かってくる。
ラーズは雄叫びを上げてそれを迎え撃った。光り輝く剣を振るい、次々と怪物どもを塵に変えていく。
まさしく奇跡の力だった。
これが怪物どもが恐れる光の勇者の力なのだ。
だが、蜘蛛型の怪物を全滅させ、巨大怪物が繰り出してきた二本の触手を斬り捨てたところで、ふいに力が抜けた。全身を覆っていた光が消失し、口からこれまでに見たことがないほどの大量の血が吐き出される。
ラーズは、そのままくず折れるように地面に倒れ伏した。
(時間切れ、ということか……)
それでも役目は果たし終えていた。
「……あとは……任せたぞ……」
視線の先には、全身から黒いオーラをほとばしらせた魔術師の姿があった。
「お見事です、ラーズ殿……おかげで間に合いました」
トーキルは深い感謝と共に呟くと、巨大怪物を睨みつけた。
「闇を滅するものが光だけと思わないことです。腐蝕と退廃、破壊と喪失こそが魔術の真髄……それを身をもって知るがいい!」
その挑発に、巨大怪物は言葉ではなく触手をもって応じた。
鋭く繰り出された触手が、華奢な魔術師の胴体を貫く。
だが、彼の顔は苦痛に歪むどころか、穏やかな微笑みを湛えていた。
(……フローラ……いま……あなたのもとへ……)
心の中で最愛の人に語り掛けながら、トーキルは呪文の最後の一節を口にした。
次の瞬間、無音の炸裂が生じた。
トーキルの肉体が内側からはじけ飛び、代わりに黒い炎の塊が現れる。
炎は触れていた触手を一瞬で消滅させると、天を昇る竜のように、巨大な火柱となって空を穿った。
黒き暴竜――。あらゆる存在を喰らう闇の炎を生み出す破壊魔術。それはトーキルが不死の術の研究をしていた際に副産物として手に入れた術だった。
本来ならば、命と引き換えにしても扱えるような術ではない。だが、周囲に満ちた瘴気が詠唱を可能としたのである。
魔術によって生み出された巨大な竜が、まるで本当に生きているかのように空中で身を捻り、急降下しながら巨大怪物に激突した。
直後に凄まじい爆発が起こる。
竜は一瞬にして巨大怪物を喰らいつくすと、そのままとぐろを巻くように地上を席巻した。嵐のような暴風を纏い、すべてのものを飲み込んでいく。
その進路上には、ラーズの姿もあった。
(トーキル……よくやってくれた……)
死の淵にあって、ラーズは自分でも驚くほど落ち着いていた。
やるべきことはやったという充足感のおかげだろうか。唯一、ウォーレンを家族のもとに帰せなかったことが悔やまれた。兄と夫を同時に失うアニーネが不憫でならない。だが、彼女ならきっとひとりでも立派にイダを育ててくれるだろう。
心残りがあるとすれば……。
そう、フィリスと交わした大切な約束……それを果たせぬことか。
(すまない……フィリス……)
ラーズは最後に残ったひとかけらの気力を振り絞り、未来を託した少女への想いを空へと解き放った。
そして誇り高きハルディの戦士は黒き暴竜に喰われた。
半ば死した身体に苦痛はなかった。あるのは、無限の虚空に放り込まれたかのような浮遊感だけ。
世界のすべてが闇に染まる。
だが、彼の瞳には、砦のバルコニーから見た美しいハルディの大地が映っていた。
いつか必ず、ハルディの民はこの景色を取り戻す――そう確信しながら、ラーズは静かに目を閉じた……。




