第37話 誓い
東の空に巨大な黒炎が立ち昇っていくのを、フィリスは見た。
少し遅れて凄まじい爆発音と突風がやってくる。
あそこはたしかラーズたちが向かった場所だ。あの火柱がなにかはわからないが、あれほどの爆発に巻き込まれて無事でいられる者がいるとは思えなかった。
「お嬢様……」
アイラが気遣うように声を掛けてくる。
「……先を急ぎましょう」
フィリスは胸を締め付けてくる痛みを無視して言った。
決して足を止めてはならない。なにがあってもコルウィンと子供たちを安全な場所まで連れていくのだ。
彼らはそのために戦ってくれているのだから……。
フィリスは自ら先頭に立ち、皆を励ましながらハイマンとの合流地点を目指した。
だが、皆の足取りは重い。特に息子を失ったばかりのベルは今にも倒れそうだった。やがてその足が止まり、地面にくずおれた。
「どうか私のことは置いて先に行ってください……」
すべてを諦めた者が発する声だった。
「あと少しですから頑張ってください」
フィリスはそう励ましたが、ベルは力なく首を振った。
「もういいんです……息子のもとへ逝かせてください……」
「そんなことを言ってはなりません!」
フィリスは思わず叫んでいた。
「騎士の方々が今も命懸けで戦っているんです! 我々が諦めてどうするのですか!? それにダンさんはあなたを守るために恐怖に立ち向かったのです! 彼のためにもあなたは生きるんです! さぁ立ってください!」
フィリスはベルの手を引いて、強引に立ち上がらせる。
「さぁ、ベルおばさん、行こう」
ルーカスがベルの肩に身体を入れて支える。すると、他の子供たちも背中を押し始めた。子供たちは誰ひとりとして、諦めたり、絶望したりしていない。
彼らの強さが前に進む勇気を与えてくれた。
「行きましょう。皆で生き残るのです!」
フィリスはそう宣言すると、再び先頭に立って歩き出した。
しかし、懸命に生きようとする彼らを嘲笑うかのように、闇の脅威が近づいていた。
北の森で仕留めきれなかったベスティアの群れがここまで追ってきたのだ。
「敵だッ! 全員走れッ!」
真っ先に気付いたアイラが大声で警告を発する。
だが、一行はあっという間に追い付かれ、黒い獣に取り囲まれた。
「みんな、わたくしの傍に!」
フィリスはコルウィンを胸に抱いたまま、すぐさま結界を展開させた。
邪悪な力を退ける光の障壁が、襲い掛かってくる獣から子供たちを守る。
が、術が安定しない。ここ数日の無理が祟っているのだ。体力も気力もほとんど底を尽いた今の状態では、そう長くはもちそうにない。
それを察したアイラが果敢に獣の群れに飛び込んでいった。
獣の頭部に剣を突き刺し、飛び掛かってきたもう一匹も返す剣で斬り伏せる。右手を噛まれて剣を取り落とすと、盾を振り回して抗った。
だが、さすがに多勢に無勢だった。四匹目を殺したところで背後から飛び掛かってきた一匹に右脚を噛まれ、転倒した。
「アイラッ!」
動揺で集中力が乱れ、辛うじて維持していた結界が解けてしまう。
だが、結果的にそれがアイラを救った。邪魔な障壁が消えたことに気付いた獣が一斉にフィリスたちの方に向かってきたのだ。
再び結界を展開できるだけの気力は、もう残っていなかった。
それでもフィリスは決して諦めなかった。
少し前までならば、使命を果たすためなら死んだって構わないと思っていた。
でも、今は違う。
そんなこと欠片も思わなかった。
絶対に死ぬわけにはいかない。
光の勇者とともに必ずこの地に戻ってくる。そう彼と約束したのだから。
「気弾!」
フィリスは最後の気力を振り絞って闇の獣どもを吹き飛ばした。
それで完全に力を使い果たし、膝をつく。
体勢を立て直した獣の一匹が、再び襲い掛かってくる。
フィリスは咄嗟にコルウィンを庇うように両腕できつく抱きしめた。
獣の牙が眼前に迫る――。
次の瞬間、目の前で血しぶきが上がった。
横から飛び込んできた何者かが獣の頭を斬り飛ばしたのだ。
一瞬アイラかと思ったが、違った。
「オッシ殿!?」
名を呼ばれた騎士は、無言のまま剣を振りかざして獣の群れに飛び込んだ。
凄まじい怒気を纏い、一個の暴力の塊となって次々と獣を惨殺していく。その姿はまさしく狂戦士そのものだった。
残っていた獣は、ほんのわずかな時間で物言わぬ骸と化していた。
「オッシ! 貴様、無事だったのか! さっきの爆発はなんだ!? 他の者たちはどうしたのだ!?」
アイラが矢継ぎ早に質問を繰り出すも、オッシは答えない。全身は血塗れで、肩で大きく息をしながら感情のこもらない目でじっと地面を睨みつけている。普段の陽気な彼とはまるで別人のようだった。
そのとき、フィリスはオッシの頬に涙の痕があることに気付いた。
何があったのか、それで察してしまった。
「ラーズさま……」
胸に途方もない喪失感が押し寄せてくる。
だが、悲嘆に暮れている暇はなかった。
今度は東からメッサーの群れが砂塵をあげて迫ってきていた。
おそらく爆心地を迂回して追ってきた別動隊だろう。絶対にここで神託の子を亡き者にするという邪悪な意思を感じて、フィリスは戦慄した。
「……ここは私が食い止めます」
掠れた声でアイラが言った。剣を杖代わりにしないと立っていられないほど酷い怪我を負っているのに、彼女の顔は聖母のように穏やかで、美しかった。
「お嬢様、どうかご無事で……」
「アイラ!」
引き止めたくなる衝動を、フィリスは必死に押さえ込んだ。
アイラを失うなど、とても考えられなかった。
彼女はフィリスを守るためだけに望んでもいない聖騎士になった。それ以来、ずっと傍にいて、ずっと支え続けてくれたのだ。その彼女を置いていくなどありえない。
それでも、行かねばならなかった。
なんの犠牲も、代償もなく、大義をなすことなどできない。すべての業を背負う覚悟がなくて人類を救うことなどできようか。
だから――
「アイラ……今まで、ありがとう……」
フィリスは絞り出すように言った。
涙だけは、どうしても止められなかった。
「――待て」
去りゆくアイラの肩を、オッシが掴んで止めた。
彼の視線は西の丘へと向けられていた。
フィリスもつられてそちらを見た。
そのときだった。
夕闇に角笛の音が鳴り響いた。
「あぁ……っ!」
フィリスは思わず片手で口を覆った。
夕日に照らされた丘の上に、百を超す騎士が整然と並び立っていた。
ハイマンの騎兵隊だ。
彼らがここまで来てくれたのだ。
「聖者殿をお守りしろ! 全騎、突撃ッ!」
ハイマンの手が勢いよく振り下ろされる。
騎兵隊が一斉に突撃を開始し、雪崩のようにメッサーの群れを飲み込んだ。
戦闘はごく短時間だった。
黒い怪物は騎士たちの手によって一匹残らず細切れにされ、全滅した。
「フィリス様、よくぞご無事で……」
馬から降りたハイマンが恭しく膝をつく。
「ハイマン殿……よく来てくださいました。深く感謝します」
「もったいなきお言葉……」
ハイマンの目がフィリスの腕のなかにいる赤子に向けられた。
「もしや、その赤子が神託の子で?」
「はい」
「……よくぞ使命を果たされましたな。亡き先王陛下もさぞ喜んでおられましょう」
老騎士が感極まった声で言った。
「ラーズさま――いえ、騎士の方々や、ここにいる皆のおかげです」
「して、そのラーズたちは何処に?」
ハイマンが辺りを見回す。
そこへ、オッシがやってきた。
満身創痍の彼を見て、ハイマンも周囲の騎士たちも息をのんだ。
オッシは淡々と起こった出来事を報告していった。そして最後に、ハルディ砦からの即時撤退をハイマンに具申した。
「新種の巨大怪物……だと?」
さしもの老練な騎士も動揺せずにはいられないようだった。
そんなハイマンとは対照的に、周囲の騎士たちは色めき立ち、すぐにラーズたちの救援に向かうべきだ主張しだした。
ハイマンは彼らの熱意に押される形で隊を二つに分け、片方をラーズたちの救援に向かわせようとした。
それを止めたのはオッシだった。
彼は騎士たちに剣を突きつけて言った。
「駄目だ。それは俺が絶対に許さない。即時撤退、それがラーズ隊長の指示だ。従わない奴は俺がこの場で斬る!」
そのときのオッシの顔は、フィリスがこれまでに見たことのないほど精悍で凛々しく、そしてどこか儚げだった。
おそらく、この場で彼ほど救出に向かいたいと思っている者はいないだろう。
懸命に心を殺していることが痛いほど伝わってくる。そして同時に、その覚悟に胸を打たれてもいた。
彼もまた、託されたのだ。
ならば、自分のなすべきこともひとつだけだった。
「ハイマン殿、急ぎ撤退を」
フィリスは毅然として言った。
老騎士は一瞬、驚いたように目を開いたが、すぐに恭しく一礼すると、周囲の騎士たちに命じた。
「撤退だ! 陣形を整えろ! 必ずや聖者殿と神託の子を無事に砦までお連れするのだ。いいか、怪物どもに指一本触れさせてはならんぞ!」
騎士たちは速やかに行動に移る。なかには嗚咽を漏らしている者がいたが、誰ひとり逆らおうとする者はいなかった。
太陽が西の稜線に沈もうとしていた。
茜色から闇色へ。刻々と変わっていく空は、まるで人類にとって長い夜の始まりを告げているかのようだった。
フィリスは振り返り、闇に染まりつつある東の地を見つめた。
(ラーズさま……)
未練、なのだろう。互いの立場を考えれば、仲間としてずっと共にいられるわけではないことはわかっていた。
それでも、もっと彼とたくさん話をしたかった。
もっと心を通わせたかった。
その願いは、おそらくもう二度と叶わない。
(負ける、ものか……)
フィリスは必死に心を奮い立たせる。
勇敢な戦士たちが残してくれた希望の灯火。
そして、ラーズと結んだ約束……。
そのふたつがある限り、なにがあっても立ち止まらない。そう誓ったのだから。
「ラーズさま、わたくしは必ずここに戻ってきます」
そのとき、胸に抱いていたコルウィンが「あぅぁー」と声を発した。
「そうね、あなたと一緒に……」
フィリスは赤子の頬をそっと撫でると、前を向いて歩き出した。




