第29話 約束
十二年前、帝国に降伏することが決まったあの日……ラーズは生まれて初めて父に逆らった。
若気の至りと言うべきか。敵に屈し、恥辱にまみれて生きるくらいなら、戦士として最後まで戦い抜き、誇りある死を遂げるべきだと、そう主張したのだ。
だが、そんなラーズに父は言った。
「お前は絶対に死んではならぬ。このハルディの地に我が民があり続ける限り、たとえ恥辱にまみれようとも、生きて皆を守るのだ」
ラーズは当初、父の言葉を受け入れられなかった。
国を失い、誇りを捨ててまで生き続ける意味なんてない。そう思ったのだ。
そしてそれは、多くの戦士たちの心情を代弁するものでもあった。
民のなかにも帝国の支配を受け入れられない者が数多くいた。
父や戦士たちがハルディの地から連れ去られると、一部の民と帝国兵との間で小競り合いが頻発した。状況は日に日に悪化し、このままではせっかく免れた虐殺が行われることにもなりかねなかった。
王族や貴族が民を支配し、贅沢な暮らしが許されるのは、有事の際に民の財産と命を守る義務があるからだ――幼いころから父にそう厳しく教え込まれてきたラーズは、最悪の事態を回避するために自らを犠牲にした。
具体的には、率先して帝国の犬に成り下がることで、民の不満と怒りの矛先を帝国から自分へと向けさせたのである。
結果として、民の虐殺は防ぐことができた。
だが、ラーズは「保身のために帝国に尻尾を振った裏切り者」と蔑まれ、侮蔑や嘲笑の対象となった。
自身がそういう扱いを受けることは覚悟していたが、母と妹まで巻き込んでしまったことは、ラーズの心に大きな影を落とした。母もアニーネも何でもないように振舞っていたが、ラーズと同様の目に遭っていたことは疑いようもなかった。
それでも、ふたりは一度たりとも恨み言を口にしなかった。それどころか常にラーズのことを気遣い、支えようとしてくれた。
深い感謝と同時に、罪悪感も抱く。
その罪悪感を紛らわせようと、ラーズはひたすら最前線に身を置き続けた。
自身の汚名は戦うことでしか払拭できない。そう考えたのだ。
やがて帝国が大陸統一に動き出すと、それを待っていたかの如く、東方の蛮族ガラトが国境を侵し始めた。
国境守備隊の一員として、ラーズも戦いに参加した。
いつ死んだって構わない、そんな心持ちだった。
心配する母や妹を顧みることなく無茶を繰り返し、無謀な戦いに明け暮れた。
その蛮勇とも言える戦いぶりが、離れていた民の心を呼び戻す端緒となったのは、もはや皮肉としか言いようがないだろう。
気が付けば、多くの同胞がラーズと轡を並べて戦っていた。
人の心は移ろいやすい。
だからラーズの心境に変化が生じたのも、ごく自然なことだったのかもしれない。
きっかけは、些細なことだった。
山沿いから侵入してきたガラト人を撃退し、帰還の途についていたときのことだ。
ふと崖の上から見下ろしたハルディの大地に、ラーズは目を奪われた。それまで特に気にも留めなかった故郷の景色が、とても美しく感じられたのだ。
なぜかはわからない。ただ、このときになって、ラーズは父の言っていた言葉の意味をようやく理解できたような気がした。
たとえ国が滅び、支配する者が変わったとしても、ハルディの大地そのものが変わったわけではない。
父とよく狩りに行ったジールの森も、母や妹と遊びに行ったダニスフの丘も、ずっと変わらずそこにある。
そして多くの民が、今もこのハルディの大地と共に暮らしている。
帝国の圧政に苦しみながらも、必死に前を向いて生きている。
民が怒りを抱くのは、それだけハルディという国を愛してくれているからだ。彼らの心には、間違いなくハルディの誇りがあった。
ハルディの大地と民。そして誇り。
それらがなくならない限り、決して国が滅びることはないのだ、と。
「――だから俺は、帝国騎士としてでも、王族としてでもなく、ハルディの地に生きるひとりの人間として、なにがあってもこの大地と民を守ると誓った。おかげで帝国に仕える屈辱にも耐えられたし、誇りも失わずに済んだ」
そこまで言ったところで、ラーズは自分が語り過ぎたことに気付いた。わざとらしく咳払いして強引に話を打ち切る。
「……すまん。つまらない話をしたな」
「いいえ、そんなことはありません。多くの方がラーズさまを慕う理由がわかった気がします」
フィリスの声はとても誠実で、それゆえに面映ゆい気持ちにさせられた。顔を見られないことがせめてもの救いだとラーズは思った。
「――ラーズさま」
意を決したようなフィリスの声が耳を撫でる。
「なんだ?」
「残念ながら、わたくしの力では黒い霧を止めることはできません。いえ、仮に教団に所属するすべての聖者が集まったとしても不可能でしょう。そう遠からず、このハルディの地は闇に呑まれてしまうことになると思います」
「……だろうな」
「帝国も教団も、まだこの地で起きている脅威を正しく認識できていません。このまま手をこまねいていれば、いずれは大陸全土が闇に呑まれることになります。それを防ぐことができる者がいるとしたら、それは光の勇者以外に考えられません。ですが、彼が成長するには時間がかかります。そしてその時間を稼ぐためには、人間同士が無益な争いを止め、協力し合わねばなりません。ですから――」
肩を掴むフィリスの手に力がこめられた。
「わたくしはこの旅が終わったら、ロセヌの聖者として、今この地で起きていることを大々的に公表し、帝国とプルトゥスに戦をやめるよう働きかけるつもりでいます」
「お嬢様!」
それまで黙っていたアイラが声を上げた。
「そんなことをすれば、帝国が――お父君が黙ってはおりません!」
その通りだとラーズも思った。
黒い霧は帝国にとっては脅威だが、今のプルトゥスには対岸の火事に過ぎない。もし公表しようものなら、それを好機と捉え間違いなく攻め込んでくる。だからこそ帝国上層部もおいそれと動けずにいるのだ。フィリスの行為は背信とみなされ、サイラス王はなりふり構わずに潰そうとしてくるだろう。
「……わたくしはこれまで、お父様と向き合うことを避けてきました。ですが、もはやそんなことを言っていられる状況ではありません。事は一刻を争います。たとえお父様と対決することになったとしても、無益な争いはやめさせねばなりません」
「教団はどうされるおつもりですか?」
「神の試練を果たし、神託の子を無事に保護したとなれば、教団もわたくしの発言を無視できないはずです。それを足掛かりに教団内の腐敗を一掃し、正しい信仰を取り戻します。そして、その上で帝国に働きかけるのです」
「そんな上手く事が運ぶとは思えません!」
「わたくしも簡単だとは思っておりません。人の世がそれほど単純ではないことも理解しているつもりです。ですが、相克を乗り越えない限り、人類に未来はありません」
「しかし、それではお嬢様が……」
「よいのです。わたくしは罪深い人間です。何も知らないコルウィンを利用し、あまつさえ世界の命運まで背負わせようとしているのですから……。それでも、彼が成長したとき、この世界を守りたいと、そう思ってもらえるような世界にしておくことが、我々が果たすべき責任ではないでしょうか」
「お嬢様……そこまでのお覚悟を……」
アイラは肩を震わせた。
「ラーズさま」
フィリスは強引に背中から降りると、ラーズの前に立った。
少女の澄んだ瞳が真っすぐに向けられる。
「わたくしはあなたの故郷を取り戻すために、いつか必ずこの地に戻ってきます。だから、そのときがきたら、また一緒に戦っていただけますか?」
胸に熱いものが込み上げてくるのをラーズは抑えられなかった。人が誰かに忠誠心を抱くとき、このような気持ちになるのだと初めて知った。
もはや青臭いなどと笑い飛ばすことはできなかった。
目の前の少女は、実の父親や教団に命を狙われながら、それでも世界の未来のために無謀とも言える戦いに挑もうとしている。
ラーズが失うものの多さに絶望し、負け犬のようにいじけていたなか、彼女はそれを奪い返すべく未来を見据えていたのだ。
彼女こそ、真の勇者だった。
ラーズは無意識のうちに跪き、フィリスの手を取っていた。
「……我が全霊を以って、あなたと共に戦うと約束しよう」




