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2.変貌

走る。ひたすらに走り続ける。

大切だった居場所も、忘れたくない思い出も、何もかもを置き去りにして。


千切れたドレスが風に靡き、炎のように燃え盛っていた。

この色を選んだ理由は何だったか。瞳の色に似合っていて綺麗だと、彼が言ってくれたからか。


張り裂けそうな胸中に反し、視界は鮮明に研ぎ澄まされていた。

引き延ばされた聴覚は森のすべてを感じ取れるかのようだった。


両手の指先は鋭い鉤爪へと変じていた。

今はそのことの意味を深く考えたくはなかった。


(それにしても……森が、静かすぎる)


皮肉なことに、西の森からやってきたはずの魔獣たちに出くわすことはなかった。

それどころか森は異様な静けさに包まれていた。


学園の襲撃。何者かの謀略。人間の魔物化。

何か、糸口が掴めそうな気がして。


そうして意識が逸れていたのがいけなかった。

私は、真横で急に炸裂する光を避けられなかった。


(熱……っ! い、な、何が…………?)


私はまともに受け身もとれず、すぐそばの木に身体を打ち付けていたようだった。

痛む首を動かして、全身を見やる。左半身は光に呑まれ、黒焦げになっていた。


黒ずんだ皮膚の下、奇妙に歪んだ肋骨(ろっこつ)は、もはや人間の形では無くなっていた。

──私の身体はすでに魔物へと変貌していた。


間もなく、暗い森の奥から落ち葉を踏みしめる音が聴こえた。

私は背中を震わせて、暗闇を見つめた。


遠方から閃光を放った下手人。

待ち望んでいたはずの死ではあるけれど、こんな終わり方はいやだった。


心臓が早鐘を打っていた。恐怖で気が狂いそうになる。

そんな数瞬の緊張は──。


「あっちゃあ、一撃で仕留めるつもりだったんですが……こりゃしくじりましたね」


その場に似つかわしくない、気の抜けた声音によって寸断された。

現れたのは、栗色の髪の少女だった。


町娘(ぜん)とした出で立ちに、特徴の薄い顔貌。人ごみに紛れれば一瞬で見失うことだろう。

けれど、私は彼女の姿によく見覚えがあった。


(リズさん……! どうして彼女がここに?)


リゼット・ノワール。貴族の子女が通う学園において、彼女の存在は際立っていた。

平民出身でありながら、魔法の素養が認められた少女。


それでも、彼女の魔法実技の成績は、言葉を選ばず言えば下から数えたほうが早いくらい。

間違っても魔獣襲撃の前線に駆り出されるはずはないが……。


(ち……違うの! 私は魔物じゃなくて、人間で……)


「ア……ア」と言葉にならない声が喉から出る。口蓋の構造上、発語は難しいようだった。

ならばと、唯一動く右腕でジェスチャーをしようとするが……。


「ちゃんと分かりますよぉ。クローディア様、でしょう?」


彼女は朗らかな調子でそう言ってのけた。相変わらず、何を考えているのか読めない。

少なくとも攻撃の姿勢は解いてくれたようだった。


「そうだ! せっかくだし聞いてくださいよー」


リズは世間話でもするような調子で、滔々(とうとう)と語りだした。


「……ここまで状況を用意するのに、私がどれほど苦労したか!」






(え…………?)


リズは何を言っているのか。状況が読めていないにもほどがある。

今の口ぶりだとまるで、学園に魔獣を呼び込んだのは彼女だと言っているようではないか。


しかし、続く彼女の言葉は、私の予想を数段上回った。


「何せ、稀代の恋人同士ですから。あなたと王子さまを引き離すのは、そりゃもう苦労しましたよ」


リズは続けて述懐する。


「王子さまは義理堅いですから婚約者以外には心を開いてくれませんでしたし、あなたの悪評を広めてもすぐに見抜かれちゃうんですよ。

こっからどーするか、(にせ)公爵令嬢様に暴れてもらおっかなーって時に、私、閃いちゃったんです。

──愛する婚約者が、実は化け物だったなんてことになったら、王子さまはどうなっちゃうんだろうって」


リズの純真な好奇の表情に、私は戦慄を覚えた。

意味が、わからない。

それだけのために。ただそれだけのために、ここまでのことを仕出かしたというのか。


「ああ、かわいそうな王子さま! 愛する婚約者が魔王?とかいうやつの手先だったなんて!

そして同時に発生する魔物による襲撃! 学園は絶体絶命の大ピンチ!

そーんな中で、偶然にも伝説の光魔法を発現させちゃったあたしってば、まさに物語のヒロインって感じじゃねーですかね?」


自らに陶酔するようで、その端々に隠しきれない悪意をばら撒く、少女の叙述。

その思考も、精神性も、在り方も、何もかも理解できなかった。


狂ってる。


「ち・な・み・に、その見てくれはグールって魔物です。なりは人間によく似ちゃいますが、屍体をぼりぼり食べる卑しーい生き物です。

しかもグールにはでけー弱点があって……」


リズは懐から袋を取り出すと、その中身をひっくり返した。


(……ッ! 痛……ァ、い! 何これ、やめ……て!)


袋の口から白い噴煙が立ち上り、それが肌に触れた途端、何物かが嚙みついたかのような強烈な痛みが走る。

傷口から血液のような何かが抜け出ていくのを感じる。


「あっはあ、効きますかあ? これ、聖灰です。聖なる灰と書いて、聖灰。魔物を滅するために聖別された魔法具です。

ぷふっ、お前もう人間じゃねーんですよ?」


激痛で頭が真っ白になる。

急激に上がる心拍に、ガラガラと浅い呼吸を吐く。


「わざわざ苦しむのを見たいほど性格は歪んじゃいねーですが、このまま生きててもらっても迷惑なんで、大人しく死んでもらえます?」


痛みに差しはさまれる少女の声。

思考は(あた)わない。ただひたすらに疑念だけが渦巻いていく。


(どうして……)


どうして、こんなことをしたのか。

どうして、ここまでする必要があったのか。

どうして、私だったのか。


「理解できねーって目えしてやがりますね。

もっとも、あーしの底を見透かされるほど虫唾の走るものはないって話ですが」


リズは言葉を切ると、感情の抜けた目で私を見下ろした。

まるであらゆるものに飽和したような顔つきだった。


「──お前がお前だから。それ以外に何の理由が必要だってんですか、公爵令嬢様?」


視界が暗転。灼熱が顔面を覆う。両眼を潰された。

痛い。熱い。痛い。


「さーてと、どうやらその身体も限界らしいですね。

……神に見放された魔物の魂は天に召されず、永遠にこの地をさまようとか。

お気の毒さまですっ!」


苦痛にうめいていたのか。それとも叫び散らしていたのか。

それすらも判然としない中、離れていく少女の足音だけはしっかりと聴きとることができた。

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