3.祈りの聖樹
彼女が消えた確信を得てから、私は仰向けになっていた身体を倒した。
ぐちゃり、と嫌な音を立てて左半身の感覚が断絶した。
既に死が目前に迫っていた。
私はまともに機能する右腕を動かし、ずるずる、ずるずると地面を這った。
薄ぼんやりと、目の前の感触に像が結ばれる。幸運なことに、片目はまだ死んでいなかったらしい。
腰から下の感覚はなかった。神経が死んだか、あるいは腐り落ちたか。
好都合だ。軽ければ、それだけ動くことができる。
行こう。行かなければ、あの場所に。
『──勘違いだった。これまで全て。……俺がお前を愛していたことはない』
もしも、これが罰だと言うのなら。
私はどれほど許されない罪を犯したというのだろうか。
『──近づくな、化け物!』
それとも私は本当に化け物だったのだろうか。
自分を人間だと思い込んでいただけの、魔物だったのか。
この心も、想いも、痛みも、人間の真似事にすぎなかったのか。
私のすべては間違いだったのか。
『──お前がお前だから。それ以外に何の理由が必要だってんですか』
一切の対話を拒絶する声を聞いた。
何もかもがわからない中で、その言葉だけには、幾ばくかの真実があるような気がした。
私はあの子に憎まれている。
それが何の因果によるものか、そうあるべくして世界があったのか。
その憎しみに気づかないまま、私はこの日まで生きてきた。
──それこそが、他ならぬ私の罪だったのか。
「──ァ」
一陣の風が吹き抜け、周囲の木々を揺らした。
見上げた先、眼前には白い巨木が枝を広げていた。
(祈りの、聖樹……)
誰がそう呼び始めたかは分からない。
学園西の〈黒の森〉の奥には、一本だけ、幹が白く染まった老木が植わっていた。
数多の例に漏れず、この大樹には学園創設から続く伝説があった。
学園入学時に耳にした、女学生の興奮した囁き声が蘇る。
──祈りの聖樹の下で愛を誓った男女は、来世でも永遠に結ばれる。
「……ゥぐ、ぁあ」
不意に感情の波が押し寄せて、それでもう、ダメだった。
形のない声が嗚咽となって、喉の奥を震わせた。
愛していた。貴方のことだけを想っていた。
叶うのなら、結ばれたかった。
貴方とともに人生を歩みたかった。
貴方の隣で、貴方と同じものを見て。
ささやかな喜びも、身を切るような痛みも、全部。
いつか笑える日が来たときに、隣で笑いかけられるように。
大樹に手を伸ばす。肩の腱が悲鳴を上げて、骨と皮だけの上腕を痙攣させた。
何もかもが手遅れだと分かっていて、それでも必死に腕を伸ばし続けた。
もう、貴方の隣にいることはできないけれど。
潰れた目からは、涙すら出てこないけれど。
枯れた腕では貴方を抱きしめられないけれど。
来世すら、もう私には巡ってこないけれど。
中空に伸びた右腕は、何も掴むことはなかった。
ただ、翳された五指の隙間で、祈りの聖樹が峻厳と聳えていた。
ひび割れた灰白の樹皮は、触れた者から生命を吸い上げるような危うげな魔力を持っていた。
幹は頭上高くで二つの主枝に分かれ、間もなく幾多もの側枝を伸ばし──。
──その末端に、鮮血のように真っ赤に濡れた葉を生じていた。
吹きしく風が樹枝を揺らし、老樹は枝葉の先端に至るまで生命を帯びて、ゆっくりと脈動していた。
闇に沈む森の中、古木は光を帯びているようで、神々しく、同時に恐ろしくもあった。
私はその威容を前に、息をすることすら忘れていた。
(きれい…………)
ぷつり、と致命的な音を立てて、ついに右腕が役目を終えた。
そのまま身体の制御を失い、頭から地面に突っ伏した。
奇跡的に保っていた私の肉体は、これで本当の限界を迎えたようだった。
身体の内側から大量の黒い塵があふれ出て、空中に溶けていくのが見えた。
肉体が朽ちて、私の魂はどこへ行くのだろう。
そのまま消えてしまうだろうか。それとも、悪霊として現世を永遠に彷徨うのだろうか。
もしそうなら、幾星霜の漂浪の果てに、再び貴方に逢うことが叶うだろうか。
そのとき貴方は、私以外の誰かと上手くやれているだろうか。
殿下は不愛想で、気難しいから、相手は苦労しそうだ。
あれで本心を伝えるのが下手くそだから、辛抱強く聞いてあげなきゃいけない。
言い方はぶっきらぼうだけど、よくよく聞いてみればわかる。
殿下は誰よりも心根が優しい人だって。どこまでも自分を後回しにしてしまう人なのだ。
だから、誰かが傍にいなければ。
優しい殿下を大切にしてくれる誰かが。
祈りの聖樹の足下で、一匹の魔物が命を落とした。
魔物の崩れた残骸は、風に吹かれ、巨木の根元に空いた洞へと転がり込んだ。
それから森は何事もなかったように静けさを取り戻した。
白い大樹だけが、なおも不気味な佇まいで聳えていた。




