第三十七話
七月七日
「それで、大人の経済力っていうのはこの事なんだ?」
「まー、電車が一番手っ取り早いだろ」
横掛けのシートに座って呆れるように話す志乃にの前で吊り輪を両手に掴んで体を預けている芯太は、視線を逸らしてそう言った。誤魔化す様に窓から見える景色を眺めてみる。
バスターミナルから私鉄の駅までバスに乗り、そこから西行きの快速急行に乗り南へ向かって下る。目的地は河川敷に公園がある終点の二つ前の隣県の駅。昔二人が辿った川の下流にあたる本流の河口前の最後の落差工を過ぎたところにあたり、そこからだと河口まで障害になるものは無く、流した笹はおそらく海まで辿り着くことができるだろう。
「でも、この電車の切符代、お父さんに貰ったお小遣いから出てるんだよね」
「大人の経済力で間違ってないだろ?」
「まあ、そうだけどね」
「芯太はアルバイトしないの?」
「遊ぶ時間が減る!」
「遊ぶお金は増えるよ?」
即答する芯太に呆れたようにそう答える。
「何? 志乃ちゃんバイトする予定なの」
つり革にぶら下がりながら、志乃の方に少し体を寄せる。
「うん。一応そのつもり。週に二日か三日程度の予定だけどね」
「志乃ちゃんと一緒ならオレもする。何のバイト?」
「学習塾の講師を考えてる」
その言葉を聞いて、今度は後ろに倒れかかる。
「あーそりゃオレには無理だー」
電車の天井を仰ぎながら言う芯太に「塾の講師って言っても、小学生か中学生ぐらい相手の予定だよ」と苦笑交じりに答えた。
「オレ、人に何か教えるの苦手だし」
「知ってる」
笑って言う志乃に、また体を近づけてさらに聞く。
「でも、何でまた塾の講師?」
「開始時間的に都合が良いのと、シフトも少ない回数で大丈夫だし。それに」
「それに?」
「先生が似合うって褒めてくれた人がいたから」
少しだけ照れたように視線を逸らしながら答える。
「うん、凄く似合う気がする。怒ると怖いところとか。今度勉強教えてよ」
「真面目に勉強するならいいよ」
「それは保証できない!」
「怒ると怖いよ」
そう言って怒ったふりをするが、目は笑っている。
そんな他愛もないやりとりをしているうちに電車は目的の駅に到着。二人は降車し、みなみ東改札口を出て線路沿いに西へ向かい。突き当りを南に折れて高架線に沿って歩く。そして高架の上から伸びているスロープ付きの歩道用階段を上がって国道の大きな橋に出た。橋の下の河川敷には野球のグラウンドが広がっている。
「ここまで来ると、あの川が随分大きくなるね」
グランドを過ぎた茂みの先に見える河を見ながら志乃が言った。
河は厳密には芯太の住んでいる街の北東にあるの他県の湖からの本流で、芯太の住んでいる地域に流れる川の支流のさらに支流となっている。芯太はそんな内容の事を志乃に説明しながら八百メートル程の大橋を渡り、螺旋階段から橋の下の左岸の堤防敷に出る。そして河川敷尾まで降りて河岸までやってくると、背中のバックパックから笹の枝の入った袋を取り出す。志乃もそれに倣い、肩に掛けたバッグから袋を取り出した。
そして、枯れた笹が崩れないよう慎重に袋から取り出す。
「ねえ、しんちゃん」
不意に志乃が口を開く。
「ん? 何?」
「それ……願い事何て書いてたの?」
志乃は芯太が袋から出したこよりで笹に結び付けられた色褪せた青い短冊を指差す。
「え? あー……まあいいんじゃない?」
芯太も覚えていなかったらしく、読み返してみた後、誤魔化すように視線を逸らした。
「いいから見せて」
芯太の笹を取り上げながらそう言う。そして短冊の願い事を見てみる。
(さとみの家まで会いに行く!)
「あはは。叶ってないね」
志乃は笑いながらそう言いって笹を返す。
「叶ってないのか?」
「だって、会いに来たのは私だし、里見じゃなくて吉行だし」
そう言いながら、自分の笹を芯太の前に差し出す。
「私は叶ったよ」
赤の短冊には(芯ちゃんに、会いに行けますように)と少し丸みのある字で書かれていた。
「何か情けないね、七夕だったら織姫の所へ会いに行くのは彦星の方なのに」
「そう? 元ネタの中国では織姫が彦星の所へ会いに行くらしいよ」
そういって悪戯っぽく笑う。そして「じゃあ流そうか」といって、河辺にしゃがみこんだ。
芯太も黙ってそれに倣う。
「いくよ。せーの」
志乃の掛け声に合わせて下振りで笹をい河に投げ入れる。笹は障害なく着水し、河の流れに任せてゆっくりと進みだした。
二人はどちらともなく手を繋いで、河口へと流れていく笹を見送る。
「……これであの時の約束果たせたかな?」
「うん。思ってたよりずっと早く叶ったよ」
「早かったか?」
「ホントは大学生になってからこっちに戻ってくるよていだったから……」
ゆらゆらと漂い流れている笹の枝を目で追いながら志乃は答える。
「そうなってたら、同じ大学か分からないし、会えなかったかもしれないよ」
「大丈夫、住んでるところ知ってるから家まで訪ねる」
河から視線を外さないまま、少しだけ目を細めてる。
「なんか、逞しくなったね。昔はずっと後ろに付いてたのに」
「中身は変わってないよ。ただ芯ちゃんを頼過ぎてただけ」
「今はそんなに頼りにならないかな?」
「そうでもないよ……」
そう言って初めて芯太の方を向くと、にっこりと微笑む。
「なぁ……」
「ん? 何?」
「キス……してもいい?」
「……何? 急に」
少し間を置いて、笑顔を崩さないまま志乃が答える。
「いや、だってここは流れ的にそんな感じかなーって……ここなら人も来ないし」
そう言って背後の土手を見上げる。特に人気も無く、河の対岸も立ち入り禁止区域になっているため見つかることは無さそうだ。
「ふーん、なるほどね」
ニコニコしながら志乃がうんうんと二度ほど小さく頷く。
「でも、やだ」
芯太が半歩程近づきかけた時に、繋いだ手を解いて後ろを向く。後ろ髪の間から覗く耳の先が赤くなっている。
「えー、何でー?」
「だって、私の事気付いてなかったし。十年早いかな」
そう言いながら後ろに手を組んでゆっくり土手の石段の方に歩き出す。
「そっか、ごめんね。これから毎日、一日十回謝るよ」
「百年毎日謝ったら許してあげるよ」
「なんか増えてるし……」
「そう?」と照れを隠す様にるように素っ気なく言ってから、言葉を続ける。顔はまだ土手の方に向いたままだ。
「ねぇ、そろそろ戻ろっか? もうみんな待ってるかも知れないし」
日が暮れ始め、河口の方の西の空が赤く染まり出している。
「そうだね、主役を独り占めしたら皆に怒られるかも」
芯太は志乃に断られた先程の言葉を忘れうと事するように、早足で先に歩いていた志乃を抜いて、土手の石段の方に向かう。
「芯太」
少し自分の前に出た芯太の左腕を右手で掴んで呼び止めた。
「ん?」
振り向いた芯太の身体をそのまま強引に引き寄せる。そして「何?」って続けようと開けた唇に自分の唇を重ねる。
カチンと小さく前歯に何かが当たる感触を感じた。
「……駄目じゃなかったっけ?」
少しの間止まっていた時間が動き出した後、唇を離した志乃に芯太は呟くように言った。
「芯太からは忘れてたからダメだけど、されるのは許すよ。だって、私からはずっと覚えてたから」
「何だよそれ……」
どう反応したらいいのか判らず、思わず苦笑いが漏れる。
「あ、もちろん私以外の相手とは百年どころか一生ダメだよ」
「あはは。百年より一生の方が短い気もするけどな」
苦笑いをしたままそう言ったあと、少し間を置いて少し視線を逸らしながら言葉を続けた。
「ねぇ志乃ちゃん。もう1回……いいかな?」
「イヤ」
芯太の要望に即答する。
「えぇー? さっきの急だったから、全然浸れてないんだけど。もっと……なんていうか、心に刻みたい」
「それ、余計にイヤ……」
そう言って芯太より先に土手の石段を登り出す。
初夏の夕暮れはすでに赤みを失いかけて、辺りは夕闇の形相を呈してきた。




