第三十話
「山の向こうに行ってみたい」
志乃は遠い視線で呟くように言った。
「山の向こう?」
一瞬、何の事か判らず聞き返す。
「関ケ原とか飛騨とか……」
「関ケ原とか飛騨とか? あーさっきの展望台での話?」
ようやく話の意味を理解する。
「いいねー。遠くに行きたいけど、今からだと帰り終電間に合わないね」
と、冗談と受け取り軽く流す。
「そうだね。あっちににネットカフェとかあるかな?」
そう言いながらスマホを取り出し、検索を始める。
「……もしかして本気で言ってる? 明日月曜だぞ」
「始発で帰れば、たぶん一限に間にあうよ」
「アッシュの晩御飯は?」
「朝、ちゃんとカリカリマシーン、セットしてきた」
「なんだよそれ?」
呆れたような口調で志乃にツッコむ。
「あるんだよ。そういう名前の餌やり機が……」
芯太は「ふーん……」と、特に興味無さげに答える。それから少し沈黙した後。改めて志乃の方に視線を向けた。
「……なあ吉行。今日ちょっと、どうかしてないか?」
訝しげな表情で志乃を見る。
「そうかな? いつも通りだよ」
スマホの画面を見て指を動かしながら、無表情で答える。
「今朝見た夢と関係してる?」
その言葉を聞いて、スマホを操作する指が固まる。これは確実に今日の態度に関連してそうだ。しかもあまり良い予感がしない。
とりあえずのところは山を下りて、喫茶店とかどこか落ち着いた場所で話をした方が賢明だろう。
「ここ出たらさー、他の所行く前にちょっと何処かで話がしたい」
芯太の言葉に、志乃は少しの間黙っていたが、しばらくして「わかった」と小さな声で同意する。
山道を出て、境内の石段を下りると、行きに来た道を引き返し、渡月小橋を渡る。そして橋を渡ったすぐ先の和調の建物のカフェに入った。
そして、奥のカウンターテーブルの付けられた窓際の席に並んで座る。窓からは嵐山公園中之島の様子が見渡せる。
芯太はアイスコーヒー、志乃はカフェラテをそれぞれ注文した。
「それで、この後どういう予定になってんだ?」
テーブルに置かれたお冷を一口飲んでから、隣に座っている志乃の方を向く。
「どういう予定って?」
「昨日見た予知夢の話。吉行、様子おかしいのそのせいだろ?」
「私、様子おかしいかな?」
芯太から目を逸らして、窓の外を見ながら答える、
「うん。いつもより陽気……というか、無理して陽気にしてるでしょ?」
「別に無理はしてないよ」
窓の外に見える大堰川の河川敷を走り回っている子供を目で追いながら志乃が答える。
「無理はしてなくても、普段通りってわけじゃないだろ?」
その言葉に俯き加減になって少しの間口をつぐむ。そして黙っている間に運ばれてきたカフェラテのカップの取っ手をつまむと軽く口を付けて唇を濡らす。そして小さく息を吐いた後、呟くように話し出す。
「今日の夕方……」
「今日の夕方?」
「今日の夕方の五時三十九分、湯築芯太は交通事故に遭う」
「……何処で?」
「君のマンションの前の交差点」
「何で?」
「信号無視で」
「オレは小学生か」
「本当は信号無視の小学生を庇って」
「なるほど、そう来たか……」
「で、今日のデートはオレが思い残す事無いように的なやつ?」
芯太のその言葉に、志乃はゆっくりと横に首を振る。
「事故が起こる現場に近寄らせないように」
「あー、そっちか。でもそれってマズイんじゃないか」
行動が変わるとどこかにしわ寄せが来る。芯太と美紗姫の時のように。しかも今回は代わりに風邪をひくどころの騒ぎじゃない。下手すると、人の命に係わる内容だ。志乃もその事を十分理解していたし、十分迷ったはずだ。だからこそ、いきなりの遠方ではなくそこそこ近場への誘い。「夢で見たから」といえば、何処へでも黙って付いてきてくれたはずなのに。
「うん。だから話した……どうすればいいと思う?」
少し曖昧な聞き方をする。志乃の言うどうすればには、三つの意味があった。一つ目は芯太が事故に遭う時間に現場へ近づかないようにする。つまり現在行っている行動の通り。二つ目は予知夢通りの行動を取るように現場に出向く。うまく夢の通り進行すれば予測不能の事態は防げるだろうが、芯太のも危険は免れない。そして三つめは、事前にそうなりうる原因を根本から排除する。この場合は事故の要因となる自動車をその時間に現場から遠ざけるか、芯太が庇う小学生を現場から遠ざけるか。
「天智先輩か要佑に相談しておく? 今日の事はまだ話してないんでしょ?」
「ううん。巻き込みたくないから」
最初は皆に相談しようとも考えたが、思い止まった。理由は不測の事態が最悪の結果だった場合、後悔も皆に共有してしまうかもしれない。背負うなら自分一人、多くても芯太と二人程度がせいぜいだ。
「みんなきっと怒るぞ」
それでも皆に背負わせるよりはずっといい。芯太もそんな志乃の気持ちを解っていて、さらりと言っただけでそれ以上の事は言わない。芯太はスマホを取り出して、待機画面の時計を見る。現在の時間は午後一時四十分。
「事故が起きるのは五時ぐらいって言ってたっけ」
「夕方の五時三十九分」
「えらく具体的だね」
「夢で何か出来事があった時は、時計を見ることにしてる」
そう言って、左手首の小さな文字盤の付いた腕時計を芯太に見せた。
成程。それで雨の日に絶妙のタイミングで傘を広げた事も納得できる。今が午後一時四十分だから事故は四時間後ぐらい。ちょっと時間に余裕あるけど対策も練らなければいけないので戻ることにした。




