第二十話
休校日である土曜日も、部活や補習の生徒で校内は賑わっていた。
生徒用昇降口から入り、下駄箱で上靴に履き替えると、二人はエントランス横の実習スペースを抜け、廊下の一番手前にある調理実習室に向かった。
そこは家庭科の授業以外では使われておらず、放課後や休日は文化部の部室になっている。
「どうぞ」
ノックすると返事が返って来た。
「失礼します」
二人は引き戸を開けて教室内に入る。
実習室の中は通常の教室の二倍程の広さで、流しとガスコンロが備え付けられた調理実習台が八台、横向けに二台ずつ並んでいる。その手前、教壇を越えて窓際になる教師用の事務机に衣替えは終わった後なのに冬用の制服を着た少女が足を組んで座っていた。足は素足ではなく、黒のストッキングが履かれている。
座っているので正確には判らないが、背丈は志乃より低いか同程度。肩に掛かる程度の外跳ねミディアムヘアを濃い目のブラウンに染めている。少し眠そうな垂れ気味の両目には下にだけ縁のある眼鏡が掛かっていた。どちらかと言えば、先輩と言うより年下の後輩というイメージだった。
「あまち先輩……ですか?」
芯太は彼女の方へ歩み寄り、少し自信無さげに問いかける。要佑から容姿等の特徴を聞いていなかった事を思い出し、少し後悔する。
「ああ。文化部部長の葛城天智だ。
そう言って、机に開いていたハードカバーの本にスピンを挟んで閉じると、代わりに机の中からノートを取り出しながら言った。
「前原の話してた子はキミか?」
「吉行志乃です」
頷いて続ける。
「で、隣の君が湯築弟だな?」
「弟って、文姉……じゃなくて、姉の事知ってるんですか?」
「そりゃまあ、元うちの部長だからな」
「は?」
「何だ知らなかったのか?」
眉をひそめる芯太に、天智は意外そうな顔をする。
「てっきり美術部だと思ってた……」
「この学校に美術部は無いからな」
「嘘だろ? 知らなかった……つーかそもそも文化部って何する部なんですか?」
「言うなれば、部になれなかった研究会の寄せ集めというか、組合みたいなものだな」
沓掛高校では、新しい部を作るには条件が三つある。一つ目は活動拠点所の確保。拠点は部室棟に空きが無ければ教室等でも良いのだが沓掛高校の場合、放課後に補習授業を行うことが多い為、特別教室の確保が前提となる。二つ目は顧問を引き受けてくれる先生を見つける事。こちらは基本、名目上の物で掛け持ちも可能な為、特に障害になる事は無い。問題は三つ目の最低部員数である。
最低部員数八人。それが新規に部活動を作るための最低必要人数だった。それ以下で集まった場合は部活動ではなく研究会や同好会としては認められるが、部活動との大きな違いとして部費が配分されないというデメリットがある。沓掛高校は体育系、文化系を問わず部活に力を入れている為、部活動費の存在は馬鹿にできないものがあった。
そこで部員を集められず、部になれなかった文科系のサークルが寄り集まり、一つの部として活動しているのが文化部であり、現在所属しているのは自然科学研究会・ラノベ漫画同好会・美術同好会・オカルト研究会・音楽同好会の五つで、現部長の葛城天智は自然科学研究会のメンバーとなっていた。
「へー。誰か知らないが、うまいこと考えたな」
「何を言っている。創始者はお前の姉だぞ」
感心している芯太に天智は即座に返した。
「マジで?」
「マジでだ。ついでに言うと、文化部の部長は眼鏡に冬服、黒ストッキングというのも文絵先輩の発案だ」
天智はこめかみ辺りを押さえながらため息交じりに言う。
「……何の意味があって?」
「知らん。文科系の部活動のイメージとか、そんな感じの事を言っていた」
(そういえば、文姉も高校の時、一年中冬服で伊達眼鏡を掛けてたな)
当時、姉が何にか解らないが『拗らしていた』時の記憶が蘇り苦笑いする。
そもそも天智も、文絵はもう卒業してしまっているのだから、悪しき伝統となる前に止めてしまえば良いのに引き継いでいるのは律儀な性格なのか、実はそのスタイルがまんざらでも無いのか。
芯太はその事には特に突っ込むでもいなく、話を主題の方に方向修正した。
「それで、葛城先輩……」
「苗字で呼ばれるのは好きじゃない。天智と呼んでくれ」
天智はそう言って少し嫌そうな顔をする。芯太は言い直して話を進めた。
「――天智先輩、要佑から話はどこまで聞いていたんでした?」
「ざっくりとは……。詳細を教えてもらえると助かる」
芯太はこれまでの経緯を説明する。時々隣の志乃に確認を取り、一部彼女から内容を正してもらいながら、話を進めた。
「なるほどな。状況は大体理解した」
腕を組んで静かに聞いていた天智はそう言いながら頷いた。
「それじゃあまず、お前達の見解を聞いてもいいか? 今起こってるこの事象は何だと思う?」
「何って……予知夢? 未来予測みたいなもの?」
芯太は志乃の方に顔を向ける。志乃も小首を傾げながら芯太と目を合わした。
「私の仮説としては少し違うかな……」
少しだけ間を置いて、天智が話を続ける。
「確率の解析的理論という考え方は知ってるか?」
芯太達は怪訝そうな表情で顔を見合わせる。
「今この瞬間にある一つの量子の位置と運動量が分かれば、その振る舞いを分析する事でその粒子の未来の運動を予測する事ができる。そしてそれが一つではなくこの世の全ての量子だったら、この先の出来事を完全に予測することができる。まあそんな感じの考え方なんだが、天智としてはその考えに否定的だ」
「どうしてですか?」
「さっきお前たちが話した雨の日の話だよ。何らかの行動によって結果が変わった事、しかもその一部は観測していないところで発生した事象だろ。それはシュレディンガー方程式の解である波動関数で表せる。つまり力学的にはストレンジアトラクターのだな……」
「ちょっと待ってください」
芯太は天智の説明を遮る。
「どうした、弟?」
「いや、すみませんが、話の内容が全く解らないです」
そう言って隣で黙って聞いていた志乃の方を向き同意を促す。志乃は小さく頷きながら苦笑する。
「確率の解析的理論で定義付けされているのはニュートン力学の範疇のみで、現在物理学で言うところの場の量子論を考慮されていない。しかし理論の提唱者であるピエール=シモン・ラプラスの言うところの『知性』俗にいう『ラプラスの悪魔』が夢という人間の脳の活動によって発現したとすると、大きな矛盾が発生する」
「即ち人間の脳活動は、量子計算によって行われているので変数を考慮する必要が出てくる。ここでこの理論が破綻するというわけだ。」
「つまり、もし未来予測なら、どんな行動を取ったとしても結果は収束して必然になるはずが、実際は行動によって状況が変わるような蓋然だったから、予知という事象よりも比較的可能性の高い事象が考えられる」
「今のこの瞬間が『現在』ではなく誰かの『過去』だった場合だ」
「未来に行くなら実現できる可能性はゼロではないけど、過去には行く事なんてできないのじゃないか?」
芯太の問いに天智がはんろんする。
「その考えは全く逆だ。と言うより、何故そう仮定する?」
「未来に行くことは、SFなんかで良く聞くウラシマ効果とかなとかで可能性ゼロではないじゃないですか? その点過去への移動は、信頼出来る文献砂上、記載が無い事から不可能な気がするんですが……」
「それは、言葉のレトリックだ」
「確かに、特殊相対性理論で予言されている通り、観測者が光速度に近付けは近付く程、時間の流れが遅くなって結果的に観測者と現実との間に時間のズレが生じる。だけどこれは観測者が未来に行ったとは言えない」
「何故なら現実は通常通り『現在』を進行させてそこに辿り着いただけであって、未来に行ったと実感しているのは観測者のみ。言うなれば夜に就寝してその間に朝になったがその間も世の中のは廻っているというのと同じようなものだ」
机の上に出したノートで棒人間風のイラストと進行状況を描きながら説明する。
「話を続けるぞ。過去に行く方法だが……ここからは量子力学の話になる。量子もつれって言葉を聞いた事あるだろ?」
「いや、無いです」
芯太は即座に答える。志乃は思い出そうとするように少し考えて「確か……」と切り出す。
「去年、ニュース番組のノーベル賞の特集かなんかで、そんな話していたような気がする……」
そう言った後「内容は良く覚えてないんですけど」と付け足した。
「二〇二二年のノーベル物理学賞だな。アメリカクラウザー博士とフランスのアスペ教授、オーストラリアのツァイリンガー教授が、量子もつれとベルの不等式の破れでそれぞれ授与している」
「量子もつれというのは二つの量子ビット同士が相互関係にある2量子ビットの量子状態の事だ。一旦二つの量子にもつれ関係になると、第1量子ビットと第2量子ビットはまるで鏡で映したかのように同じ振る舞いをするようになる。つまり一方を観測するともう一方の状態が確実にわかる。どんなに距離が離れていても、どんなに時間が離れていてもだ」
「つまり、過去に発生した量子ビットと、それからずっと先の時間に発生した量子ビットが、もつれ関係になって相互作用してしまった為、それを利用した一種のタイムリープ状態に陥ってしまっているのではないかというのが私の結論だ」




