第十九話
「お邪魔します」
そう言って玄関の扉を閉めると、廊下の向こうから一匹の猫が顔を出して出迎えてくれた。
品種はラグドール。ブルーの瞳、大きめの体躯。ふかふかした豊かな毛並みは白を基準としており、耳と顔周り、手足と尻尾に青みのかかったグレーのポイントが入っている。
「同居人?」
廊下の奥に向かって声を掛ける。
奥から「アッシュよ」と言った声が反ってきた。
「こんにちは、アッシュ」
芯太が声を掛けると「にゃあ」と返事をして、廊下の向こうに戻って行く。
入れ替わりに眼鏡を外した志乃が姿を見せた。
「中に入っっていいよ」
志乃に促され靴を揃えて廊下に上がる。
「眼鏡は?」
「コンタクト入れてきた」
「えー? 眼鏡っ子、可愛いかったのに」
「それは、眼鏡取ったら可愛くないって事かな?」
「いや、超可愛い」
「いつも女の子に見境なくそんな調子いい事言ってるんでしょ」
「容姿で選んで言うよ」
「この時勢に聞き捨てならないセリフだね」
そう言ってため息を吐くと、廊下の奥をあごで指して先に奥へ入って行く。芯太は後からその背中を付いて行った。
「適当に座ってて」
リビングに案内すると、志乃はそう言って奥のカウンターになった台所の方に向かった。
「その部屋の物、殆どおばあちゃんのだから、勝手に触らないでね」
コーヒーポットをコンロの火に掛けながら、そう言い加える。
ソファやリビングテーブルはブラウン基調にシックに揃えられ、木目調のリビングキャビネットの上にはドライフラワーの入った花瓶や何かの記念品らしき盾が置かれている、その横には幾つか写真立てが並んでいたが、写真の何枚かは下を向けて伏せられていた。
芯太はアッシュの抜けた毛が目立たないようにするためであろう薄灰色をした絨毯の上に鞄を置き、ソファの端に腰を掛ける。高級品であろう抜群の座り心地だった。
「お昼ご飯どうする? この辺りお店無いよ」
小さなトレイでコーヒーの入ったカップを運びながら志乃が尋ねた。
「うーん……通りまで出たら何軒か食べる店あるけど……吉行は何か食べたい物ある?」
コーヒーカップを受け取りながらそう聞き返す。志乃は芯太の右横の一人掛けのソファに座ると、砂糖の入れたコーヒーをかき混ぜながら答える。
「私は何でもいいよ。君に合わす」
「だったら……」少し間を空けてから、カップをテーブルに置いて芯太は志乃の方を見る。
「吉行の手料理!」
「調子に乗るな」
そう言って座ったまま足を延ばすと、芯太の右足の指を踵で踏みつけた。
「だって吉行、食べたい物オレに合わすって言ったじゃん」
手をテーブルの下の足元に持っていき、足の指をさすりながら言う。
「そういうのを屁理屈って言うのよ」
少し怒った振りをしながらコーヒカップを口に付ける。
「いつも弁当美味そうだし、一度食べてみたいなって思ってたから」
「芯太のお姉さんのお弁当も美味しそうよ」
手に持ったカップをテーブルに静かに置く。そしてゆっくりと立ち上がって芯太から目を逸らす。
「――何か食べたい物ある?」
え?」
「家にある材料でできそうな物なら作ってあげる」
「マジで?」
その言葉に芯太は目を輝かせる。
「手料理なら何でもいい」
「大した物はできないよ」
そう言ってキッチンの方に向かい、髪を後ろでポニーテールに束ねてハンガーラックに掛けられたエプロン手に取る。それを制服の上から身に着けると、冷蔵庫を開けて食材を調理台の上に置いていく。ふと視線を感じ、カウンタ越しにリビングの方を見ると、芯太が後ろ向きに座ってこちらを窺っていた。
「何?」
「エプロン着けるてると、何か新妻みたいだなと思って」
芯太はニコニコしながら答える。
「普段は着けないわよ。今日は服が制服だから」
「へー普段は裸エプロンなんだ」
「そっちじゃない! ホントにばかね。録音して今度美紗姫ちゃんに聞かせようかしら……」
抗議か独り言か判らないような口調で返しながらフライパンの上でターナーを繰る。バターを焦げた良い香りがリビングまで漂ってきた。
「お待たせ」
両方の手に一枚ずつ深皿を持ってキッチンから出てきた志乃は、そう言いながらオムライスの入ったその皿をリビングテーブルの上に置いた。
「おお、すげー美味そう」
芯太の感嘆の声に「余り物で作ったから味は保証しないわよ」と返す。
「これってアッシュ。」
少し硬めに仕上げられた薄焼き卵の表面にケチャップであしらわれた猫の顔を見て芯太が尋ねる。チキンライスを巻いているよく火の通った卵の表面にはそれぞれ仕上げにケチャップでつぶらな目の猫と、糸目の猫の顔があしらわれている。最近の小洒落た店では、とろとろ半熟の卵を乗せて半分に割ったようなオムライスが大半を占めているが、こういう昔ながらのものも悪くない。
「目の細い方はカーボン。カーボンはアッシュの前に飼ってた子」
そう言いながらキッチンの方に戻り、食器棚の引き出しを開けて中を探り始める。中からフォークとスプーンを二組取り出すと、冷蔵庫から取り出した小さなガラス製のボウル皿二つと一緒に持ってこちらに戻って来た。ボウル皿の中には一口大にちぎられたレタスと櫛切りのトマトか2切れ入っている。
「手洗いなら、廊下の角の扉が洗面所よ」
志乃は着けていたエプロンを脱いでハンガーラックに戻すと、芯太の座っていた横の席に座り直した。
「食べてもいいかな?」
手を洗って洗面所から帰ってきた芯太は、志乃方を見て尋ねた。
その言葉に「どうぞ」と言って掌を前に出して促す。
「いただきます」
そう言ってスプーンを持ったまま、両手を合わせる。
「どうしたの?」
中々手を付けようとしない芯太に、志乃は不思議そうに尋ねた。
「いやぁ何か可哀想だと思って、ネコちゃん」
ケチャップで描かれたアッシュの似顔絵を見ながら、苦笑いを浮かべてそんな事を言う。
「食べてもらった方がオムライスの猫ちゃんも喜ぶわよ。ねぇ、アッシュ」
子供をあやすような口調でそう言った後、志乃の足元で丸くなっていたアッシュに声を掛ける。
「にゃあ」
名前を呼ばれた事に反応して一言鳴いた後、また餌入れの方に顔を戻す。
「ほら、アッシュもそうだって言ってるわよ」
志乃はそう言いながら、自分のオムライスにスプーンで掬って、幸せそうな顔をしながら口に運んでいる。
芯太は、アッシュの似顔絵の髭のあたりにスプーンを入れて一口食べてみた。初めに想像していたよりの厚めの卵からバターの風味が口いっぱいに広がる。
包まれえているチキンライスは、ケチャップの酸味はあまり感じず、ブイヨンのようなコクと旨味の強い優しい味わいとなっており、それが口の中でほどける。芯太はあまりの美味しさにスプーンを止めることができず、一気に平らげてしまった。
「結構大きめの物を作ったつもりだったけど、よっぽどお腹が空いていたのかな?」
空になった芯太のオムライスの皿を見て志乃は呆れたように言う。ひと回りり小さい志乃のオムライスは、まだ半分に差し掛かったぐらいだった。
「ていうより、無茶苦茶美味すぎて、食べる手が止まらなかった」
芯太はサラダのトマトを刺したフォークを握りながら答える。
「それはどうもありがとう」
そう言いながらスプーンを口に運び、幸せそうな表情で頬張る。そんな志乃を見ていると、こちらも嬉しい気分になってくる。
「なに?」
ニヤニヤしながらこちらをじっと見ている芯太の視線に気付き顔を上げた。
「学校で昼に弁当を食べてる時も思ってたんだけど、吉行ってすげー美味そうな表情をして物を食べるなと思って」
「そう?」
「うん」
「……小学生の頃ね」
少しだけスプーンの手を止めて、志乃が話し出す。
「ある人に、『美味しいものを食べたりして幸せな気分になったら素直それをに顔に出せば、周りの皆も同じよいうに幸せな気分にる』って教えてもらった事があって……最初、意識してそうしてたんだけど、いつの間にか無意識でもそれが出るようになったみたい」
そう言って少し照れたような笑みを浮かべる。
「そうなんだ。いい事言う奴居るな。昔の彼氏?」
その言葉を聞いて、志乃は少しムッとすると、視線を逸らして、
「さぁ? 誰だったかな……」
と、誤魔化すように言った。どうも彼女は昔の恋人関係の話を切り出すと機嫌が悪くなるらしい。芯太は、ボウル皿に入ったレタスをフォークで苛めながら、これから会話の際は気を付けるよう心に刻んだ。
「ごちそうさま」
オムライスを食べ終えた志乃は、両手を合わせて言った。
「ごちそうさまでした」
芯太も両手を合わせて志乃に続ける。
「足りた?」
「うん。でも吉行の手料理なら、あと五人分は食べられるよ」
「お腹壊すわよ」
お皿を片付けながら上機嫌でそう言う。どうやら残っているオムライスを食べてるうちに機嫌は直ったようだ。
(何か怒られてしまっても、ケーキでも差し入れたら機嫌治りそうだな)
そんな事を考えながら「手伝おうか?」と立ち上がる。
「いいよ、座ってて」
志乃は空いた器を一つに重ねると、キッチンまで持って行って食洗器に並べて戻って来た。
「そろそろ出る?」
壁にかかった細工時計の方に目をやると、すでに午後一時を回っていた。
「もうこんな時間か」
もう少し新婚ごっこを満喫したかったが、要佑が取り次いでくれた約束があるので仕方がない。芯太は立ち上がって軽く伸びをした。
「じゃあ、ちょっとだけ待って」
志乃は、ポニーテールにした髪を解いてリビングのから出て行く。直ぐに洗面所からドライヤーを掛ける音が聞こえてくる。
それから五分程して、リビングに戻って来た。すでに腕には鞄を持っている。
「お待たせ」
その言葉に床へ置いた鞄を手に取る。
「アッシュ、お留守番よろしくね」
出かける気配を感じ取り、見送りの為に志乃の方へ寄って来たアッシュの顔の髭の周りをしゃがんで撫でる。
「お前、羨ましいな。美人の飼い主に毎日撫でてもらって」
一緒にしゃがんで頭のてっぺんを撫でる芯太に「あら、アッシュは女の子よ」と返す。
「そうか、女の子か。変な雄に捕まるなよ」
その言葉に「芯太みたいな?」と言って、くすくす笑いながら立ち上がった。
「じゃあ行こうか」
志乃は鞄を持ち直して玄関へと向かった。




