第十四話
「お昼までには帰って来てね」
眼鏡の少女の母親らしき女性は、そう言って彼女の頭を軽く撫でた。
その言葉に「うん」と小さく頷く。
「あと、怪我もあるからあんまり遠くに行っちゃ駄目よ」
「わかってる。そこの公園までだよ」
女性の元を離れ、少年の方に歩み寄る。彼は右手に菓子の缶を持っている。
「また、しんた君に迷惑掛けないように気を付けなさいよ」
女性は少年の方の方に向き直し、うちの子をよろしくというように頭を下げた。
昨日の夕方、右足から血を流した眼鏡の少女は、その少年に背負われて家まで帰って来た。
自分より背丈の大きな少女を背負ったまま、尚且つ女の子の足を引きずらないよう注意しながら一キロ半程の行程を歩いてきた為、家に着いた途端、へたり込んでしまった。
それから一時間程して、体力が少し回復したのを見計らい、姉に付き添われて、住んでいるマンションの隣のに住んでいる彼女の部屋を訪ねた。
怪我をさせたお詫びの為に訪れたはずが、彼女の母親から逆に謝られてしまった。
少女は、彼の制止を振り切って遠出したところ、怪我をして歩けなくなったので、少年に負ぶさって帰って来たと母親に話したようだった。
少年は事の真相を話そうと口を開きかけたが、付き添いの姉が、こちらも悪かったのでお互い様と言ったような流れで話を纏めてしまった為、言いそびれてしまった。
少年は、罪悪感に苛まれながら深く頭を下げて応えた。
「行こう、しんちゃん」
眼鏡の女の子は、彼の手を取り少しだけ速足気味に歩き出した。
六月三〇日。
ダイニングで眠そうな目を擦りながら朝食を摂っていると、隣の椅子に置いた鞄の中からブッブッと振動音が聞こえた。
芯太は、鞄からスマートフォンを取り出してロックを解除する。画面に新規メッセージがある旨の通知がポップアップされていた。
トーストを咥えたままメッセージのアプリを開き、内容を確認する。差出人は美紗姫だった。
『寝坊した! 今日は先に行って!』
その一言に続いて焦って冷や汗をかいたリスのスタンプが添えられている。芯太は少し間を置いて、メッセージを入力する。
『どんまい。パジャマで来るなよ』
『あんたと一緒にすな!』
間を置かず返事が返って来た。芯太はトーストを咀嚼しながらさらにメッセージを返す。
『朝飯食わなきゃまだ間に合う時間じゃないのか?』
『女の子には何かと準備があるのよ!』
『ああ成程、女は便秘がちっていうしな』
『死ね‼』
芯太はその返信に「フッ」と鼻で笑った後、スマホを鞄に入れて立ち上がった。これ以上邪魔をして間に合うものも間に合わなくなったら、後々何て罵られるかわからない。
皿に付いたパン屑を流しで払い、空のコーヒーカップと共にスポンジで軽く濯いだ後、水切りラックに立て掛ける。
キッチンに差し込む朝の日差しを受けながら、芯太は一度大きく伸びをした。
そして、椅子に置かれた鞄を手に取り、借りていた折り畳み傘とテーブルに置かれている文絵手製の弁当が入った包みを忘れないように入れる。
傘は昨日帰った後、一度水洗いして雨水の汚れを落とし、今朝まで玄関で干した後、畳んだ物だ。
確認を終えると鞄を肩に掛け、ダイニングを出た。
「文姉、行ってくる」
文絵の部屋の扉をノックして声を掛ける。
「ん。いってらっしゃい……」
寝入ったところだったのか、扉の向こうから寝ぼけたような鼻に掛かった声が聞こえた。
「起こした? ごめん」とだけ付け加え、芯太は靴を履いて玄関を出た。
そして、少しだけ気になって隣の美紗姫の部屋の窓の前まで行ってみる。
カーテンの掛かった型ガラスの窓に向かい、声を掛けてみる。
「美紗姫ーじゃあ、先に行くぞー」
窓の向こうからの返事は無い。部屋の照明はついているようだが、寝坊で慌てているような喧噪も無く部屋は静まり返っていた。
「……やっぱ便秘かな?」
芯太はぼそりと独り言を言って、エレベータの方へ踵を返した。
芯太が教室に着くと、志乃はすでに席に着いていた。いつものように一限目の授業の予習を行っている。
「おはよう吉行」
声を掛ける芯太に「おはよう」と振り返る。
「これありがとう」
そう言って鞄から借りていた折り畳み傘を取り出して志乃に手渡した。
「どういたしまして」
そう言った後「風邪とか引かなかった?」と続ける。
「おかげさまで」と答えた芯太を見て、安心したように小さく微笑んだ。そしてその後、少し周りを見渡して小首かけてみる
「美紗姫ちゃんは?」
「あー、便秘で遅れるって」
芯太の言葉に怪訝そうな表情を作る。
「嘘うそ、寝坊だってさ」
美紗姫に告げ口されると後々面倒なので、とりあえず訂正しておいた。
志乃は表情をそのままで「そう」とだけ答える。
「言っておくけど、美紗姫が先に行けって言ったんだぞ」
志乃が怪訝がっている理由が、芯太が彼女を置いて先にきた為だと思い弁明したが「うん」とだけ答えて何か考え込むように黙ってしまった。
暫くした後、要佑と美紗姫が教室に姿を現した。美紗姫は少し紅潮した顔で、ハァハァと肩で息をしている。
「おはよう。二人一緒?」
「そこの階段で、阿方を拾った」
聞けば要佑は、下駄箱から奥に入った所の階段の踊り場で美紗姫がバテているのを見つけたので、彼女の荷物持ちをして一緒に教室まで来たとの事だった。
「で、何でそんなにバテてるんだ?」
「しょうがないでしょ。遅刻すると思って校門から校舎まで全速で駆け上がって来たんだから」
美紗姫が、両膝に手をついて答える。
「美紗姫ちゃん大丈夫?」
心配そうに尋ねる志乃に、俯いたまま右手でVサインを作って志乃の前に出す。
「まあ、もうすぐ予鈴だから席に着いて休んでおけば?」
美紗姫の鞄を彼女の机に置いて戻って来た要佑がそう美紗姫に声をかける。
「ありがとう」
美紗姫はそう言ってふらふらと席に戻って行った。
「美紗姫ちょっといいか?」
一限目の授業が終わった後、芯太は美紗姫の席の所まで来て言った。
「どうしたの?」
のろのろと教科書を鞄に片付けながら、次の授業の教材を机の中から取り出す。
芯太は出し抜けに、美紗姫の額に自分の右手を当てようとする。美紗姫は咄嗟にその手を払おうとしたが、それを避けて美紗姫の額に当てる。額は仄かに汗ばんでいた。
「何よ急に!」
美紗姫は芯太を睨め付けながら言った。そんな様子を見ていた志乃達も彼女の席の方に向かう。
「お前、熱があるだろ?」
もう片方の手を自分の額に当てながら、芯太は美紗姫の方を見て言った。
朝から何か様子がおかしいと思い、授業中も何度か美紗姫に目をやったが、ずっと俯き加減で授業もうわの空だったため、授業が終わってから様子を見に来たというわけだった。
「……」
美紗姫は無言で答えない。
「いつからだ?」
「……今朝、目が覚めた時から」
芯太に詰め寄られ、美紗姫は俯いたまましぶしぶと答えた。
「ったく、そんな状態で何で学校来るんだよ」
「ちょっと経ったら良くなると思った……」
「朝も本当は寝坊じゃなくて熱で起きられなかったんだろ?」
少しの沈黙の後、コクリと頷く。
「とりあえず、保健室で熱測って寝てろ。要佑、美紗姫を運ぶの手伝ってくれ」
そう言った芯太を右手で制して席から立ち上がる。
「大丈夫、一人で行けるよ」
俯き加減でゆっくり歩きだした美紗姫の後を、志乃が心配そうに付いていく。芯太と要佑も念のため付添う事にした。
「美紗姫ちゃんごめんね。熱出たの、たぶん私のせいだと思う……」
少しだけ声を潤ませながら言う志乃に、美紗姫はハッとして一瞬立ち止まったが、またすぐにのろのろと歩き出した。
「何で? の志乃ちゃんのせいじゃないよ。昨日ちょっと雨に降られちゃって」
そう言って、ちろりと舌を出しながら照れるように苦笑いをする。
志乃はそれを聞いて何か言いかけたが思い留まって「そうなんだ」とだけ応えた。
保健室で美紗姫を養護教諭に預けた帰り、速足の二人の後ろを歩いていた志乃は不意にその場に立ち止まった。
「どうしたの? 吉行さん、急がないと。授業のチャイム鳴ってるよ」
立ち止まった志乃に気付いた要佑は、振り返って志乃に尋ねた。
「あのね……後でみんなに話したいことがある」




