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不必要な衝撃を受けたが、状況が大きく好転したというわけではない。
むしろ時間だけは経過しており、若田部の言ったことが正しいとすると危機は迫ってきている。何より表情一つ変えないところが不気味さを増長させている。先ほど三人で来たことが想定外といっていたが、この状況だとどうなのだろう。
また強く西日が差してきた。窓が開いた分、風が通るようにはなったがほぼ無風であり、大きな影響はなかった。
水雲に対していくつも訊きたいことがあったが、全てを我慢して現状にのみ集中する。口を開こうとした時、実際に声を出したのは、水雲鶴だった。
「どうも。私滋賀県警捜査一課の水雲と申します。すみませんね、急に押しかけてしまって。まああなたの家じゃないので、押しかけるもへったくれもあったもんじゃないですけど」
「ならば来ないでいただきたかった。ああ、今の発言は保身という意味でです。彼女……東後円香さんはじき亡くなるので、あなた方が来られても何も影響はないのですが」
「で、この状況、何か言い訳はありますか?」
待ってましたとばかりに、食い気味に若田部は反応する。
「言い訳? 彼女が自発的に行動して、今の状況が作られたというのに、言い訳もくそもないでしょう。彼女に訊いて下さいよ。何故、このような状況を作り出したのかってね」
「若田部さん、すべて分かってるんですよ。そして皆、あなたに失望しています」
「失望……。失望ですか……。便利な言葉ですね。勝手に印象を持って、勝手に裏切られたと思い込んだ結果を綺麗に表しただけだ。責任転嫁も甚だしい。それより……、まだ時間はありますね」彼は自らの腕時計に目を落とす。
「ゆっくりといいですから、あなた方の推理を聴かせてもらえますか? 今後の参考にしたい」
そう言うと若田部は腕を組み、肩の力を抜いた。一瞬で構えられた拳銃に力が入れられたのが空気を伝わってきた。
ただ、虎次郎もそれは気になっていた。
水雲もなかなかどうして自由に行動する男とはいえ、これだけの刑事を従えてこの岬結良の家まで向かってきたのだ。何かしらの理由、あるいは根拠なしにこの場に来ることは考えにくい。
「若田部には気をつけろ」厳密な言い回しは忘れたが、今になって水雲の言葉が頭の中で繰り返された。あの時から既に……、いやいや、そんなはずは……と考えをかき消す。
いずれにしても円香の状態については、現状若田部の言葉を信じることしかできない。というよりいざとなればあのロープを切れば首つりによる自殺はできない。そう思い至り彼は安堵して水雲の言葉を待った。目の端では、ロープを切ることができそうなものを探しながら。
「若田部さんが四十万胡桃殺しの犯人ということには、早いうちから気づいてましたよ。といっても二日、三日経ったあたりですけど。あなた管轄のそれも京都府のど真ん中で殺人をしたのはミスでしたね」
水雲は淡々と話し始める。皆がそれに聞き入っていた。どうしてか寿至だけは不機嫌そうな顔をしている。ほんの少しだけ兄弟の関係がわかった気になった。
「事件の概要はこうでしたね。七月二十四日、日曜日。京都府京都市東山区にある三条駅から徒歩五分の場所、奏君の話によると、〈マイルドリンゴ〉という紳士服店の隣の店にピンクの軽自動車が突っ込み、その車に跳ねられ一人の女性が死亡した。彼女は四十万胡桃という名の女子大生で、その数分前に発生していた芦田渋刺殺事件の第一発見者とされている」
覚えてきたのだろうか、そらで話していることに虎次郎は驚きを隠せなかった。もっともラブモードに入っているといわれれば納得できるのだが。それよりも今の話。虎次郎はおや、という風に思った。水雲にあの事件の話をした覚えがないのに自分が話したことになっている。そしてその理由に思い至る。
勝手にあの事件を調べていたときにまとめていたファイル。大部分は持ち帰っていたのだが、ほんの一部署に置き忘れていたのであった。この事件を解決するのに集中するあまり完全に失念していた。
「まあ詳しい話はええでしょう。通報されてすぐに警察と救急車が到着した。そして若田部さんが現場に着いたのは……だいたい十分後くらいですか?」
「そうですね」若田部は大きく頷く。
「まあ今のは確認ですわ。あ、核心つくのが先ですね。いやいや、今でも上司に怒られるんですよ。報告から先にしろって。グダグダ喋ってしまう癖があるんですねえ」
また寿至が苦虫を磨りつぶしたような顔になる。虎次郎は確かに寿至が嫌がりそうだと思いつつも、相似箇所すら見つからず、本当に兄弟なのかまだ完全に信用できていなかった。
「私があなたを犯人やと確信したのは、ある結論に達したからです。天才と形容され、犯人を捕まえるという目的に対して何一つ脇目も振らず、ただただミスなく逮捕を繰り返してきたあなたが、どうしてこの事件を解決できないのか。それは、あなた自身が犯人に他ならないから。それが答えや」
さらに思い沈黙がのしかかる。水雲も口を塞ぐ。あえて黙っているのか、もう話すことがないから黙っているのか判別できないが、思わず虎次郎が口を開く。
「えー。そんな推理……」
「奏君。もちろん刑事としても、探偵としても思考の流れとしてはふさわしくないで。何よりも証拠がない。けど奏君はそこんとこちゃんとやってきたから今ここにいるんやろ? たぶん浦谷君も何か怪しいと踏んでただけやったら私にも連絡してこうへんかったやろうし、この場所にも来てなかったと思うで」
「いや、ちょっと待って下さい……。私が言いたいのはそれじゃなくて」
「うん、分かってる分かってる。私達がここに来る理由としてそれは薄いっていうんやろ?じゃあ説明するわ」
水雲の顔つきが変わった。明らかに刑事の顔だ。これまでは半分仏が入っていた。
「今回の事件の中で最も異質やったのは、芦田渋が殺されてた点やな。実際問題、そのスタート地点で躓くと、多分一生答えにはたどり着けへんかった。芦田は報道にもされてた通り、そこらの大学生を狙って麻薬を売りさばいてた人物。つまり誰に殺されても、特に驚かれへん人間。……あんまこういうこと言うべきじゃないんやけどね、刑事としては」
余計な一言。ようやく寿至との共通点を見つけて微笑みかけて踏みとどまった。
そして、ずっと疑問視していたことが水雲から発せられたので、少し驚いた。
この人は通常業務もこなしながら、家族を大事にしながら、管轄外の事件にまで手を伸ばすことができるのだろうか。一つの事件に向かってしまうと、とことんそれ以外に目を向けられない自分と比較しているから余計にそう感じてしまうのだろうか。
芦田を殺したのが一体誰か。
虎次郎は若田部以外にありえないと考えていた。ただ、殺した理由が分からない。嫌疑を浦谷にかけるだけなら、他にも方法はあったはずだ。
芦田が麻薬販売をしていたのは、四十万胡桃の通う大学の学生だけではなかった。
だが、虎次郎が独自に捜査して得られた収穫はそれだけだった。彼も一人っ子という共通点を持っていたものの、二十代でもなければ女性でもなかった。だから疑問に思ってもそこまで重要視していなかったことも確かだ。それに、別の事件という可能性もあった。
あの殺人に意味があったと気づいたのは、長戸照貴弥が殺された後だった。そして、あの違和感に気づいた時、もっと早くに芦田が殺された理由について考えておくべきだったと考えたものだ。
しかしやはり、本当に浦谷に罪をなすりつけるだけが目的だったのならわざわざあそこで芦田を殺す必要があったのかと思えてくる。
「芦田を殺したのは誰やっても関係なかったねんな」
「え?」
これまで自分の考えていたことが完全にひっくり返ったので思わず反応してしまった。
「重要なのは、芦田があそこで殺されていたという事実だけ。芦田の立場は、麻薬取引組織の幹部。となれば、当然警察としては麻薬絡みの犯罪やという方向で捜査せざるを得なくなる。さて僕が言いたいことは何でしょうか? どう思う? 奏君」
かつての警視の真似をされ、思わず顔がほころぶ。塚崎は自分の答えとそぐわないことを言ったら勘当されそうな勢いで怒られたものだが、水雲にはそれがない。
「そっちの方に人員を割いて欲しかったから? いやしかし……」
「うん、ハズレ。仮にこの事件の本質に気づいた人を誘導するためやな。特に警察関係者以外を」
「え……いや、それは意味ないのでは?」
「お、奏君らしくない。今の君の立場は何や?」
「探偵ですけど……。そんなん……偶然ですし」
「そう、若田部さんはその偶然に対処したことになる」
恐ろしい思考。周到と呼ぶべきなのか。そこまでしてこの事件を明るみに出したくなかったのかと思うと恐れ入る。
「私はもちろん一緒に来た人らも若田部さんがどういった捜査方針でこの事件に取り組んでたのかはわからへん。けど……、芦田を殺した犯人が麻薬がらみやから、あるいは組織の殲滅を目論んだシビアな問題が潜んでいるのか、と思わせることができたら思うつぼってやつやな。そんな小難しい話じゃないねん。若田部さんが犯人やから誰も捕まってへんっていうだけやねんから」
若田部の表情は何も変化しない。
「要は証拠はないけど、怪しいから逮捕しますってわけですか……。失笑以下の戯れ言ですね」
「証拠……」虎次郎は呟く。
やはり若田部自身、あの失言に気づいていないようだ。
虎次郎は気づいたときは僥倖にしか思えなかったが、これほどに洗練された若田部の思考に、どうしてあのような狂いがあったのかは再考する価値があるかもしれない。
「え……ちょっと待って下さいよ、水雲さん。もしかしてそれだけの理由でここに駆けつけていただいたんですか?」
「待ってましたのそのお言葉! その通りやで。あ、いやちょっとちゃうか。確実に奏君と、その……どこぞの弟やらがいるやろなあ、と。それと、危機的状況になってるやろなあと、そんな刑事の勘が働いたってのも大いにあるんやで」
これまでに聞いたことがないような大きなため息を寿至が吐いた。
「コジロー、何か色々と済まない。バイタリティが強すぎるんだ、この兄貴は」
どこかかつての先輩に親近感が湧いた。水雲が虎次郎によくしてくれていたのは、自分に似た部分を見ていたからなのだと、今更になって気がついた。
「いやいや」
鋭く怒気が込められた、冷たい声だった。
「これだから警察の信頼は地に落ちるんですわ。なあ浦谷君? ほんまこんなとこにいても意味ないなあ、帰ろう、早く」
「意味ないことはないですよ」
虎次郎の言葉を受けて、県警の人間数人がビクンと身体を震わせた。
水雲がにやりと笑い、「奏ショー」と小声で言ったのを聞き逃さなかった。
「手原めぐみ……若田部さんが自殺に見せかけて殺した女子高生ですが……、彼女の担任だった長戸照貴弥が殺された事件」
冒頭で一つ爆弾を放り込んだが、若田部は何も言ってこない。
「第一発見者は我々三人だったわけですが、あの時パトカーの中で事情聴取を受けましたよね?」
あの時、円香の様子がおかしくなったのは若田部を見たからだったのだ。それも、警察官としての若田部を。
「若田部さんは『犯人の目星がついている』とおっしゃいました。私もそう言いましたが、それはお互いに浦谷さんのことを指していると思いました。そのとき、何かが引っかかったんです。ずっと分からなかったんですが、ようやく理解できました」一つ唾を飲む。
「僕を迷わせるブラフだったんですね。なぜなら、四十万胡桃のストーカーは、長戸照貴弥と、この浦谷さんだったんですから」
「え? 僕っすか?」
心底驚いた表情を彼は作った。しかしあまりにも大げさすぎるので、演技だと確信する。
「浦谷さんは、麻薬などやっていません」
「どうして?」若田部が初めて口を挟む。
「僕が何故浦谷さんを犯人と思っていたかから話す必要がありますね。まず……初めて若田部さんとお話しさせていただいたカフェで、四十万胡桃にストーカーが二人いたことを知りました。そして彼等が被疑者であると。もちろん名前は伏せられましたね。刑事時代の癖から踏み入ってしまった質問をしたと反省しました。で、これはまさに偶然だったわけですが、四十万胡桃の友人に東後が会いに行ったんです。そこで……もっとも、長戸照貴弥を殺した張本人である栄瀬眞紀子という女子大生が彼にストーカーされていると言ったのです。それが分かった時、ゴールに確実に近づいたと思いましたよ。だって〝自殺した〟手原めぐみの担任だったんですよ。共通点ありありですよね。でも、こううまく行き過ぎている時って、どうしても疑いたくなるんですよね、警察なら皆さん経験あるとおもいますが」
虎次郎は少し周囲の様子を窺う。
頷く県警の人間が多くいる中で、水雲は笑みを浮かべながら大きく首を縦に振っている。若田部は黙って腕を組んでいて、寿至と浦谷については虎次郎の話に完全に聞き入っているのか反応なしだった。ただ、浦谷の目はかなり泳いでいた。虎次郎を見つつも、別のことを考えているのだろう。視界に虎次郎は入っていないかもしれない。
それもそうだ。
彼自身、まったくあの三人とつながりはなかったのだから。全てが若田部の準備の上で成り立っていたのだから。
「そして長戸はアパートで殺されていました。僕らが駆けつけたのは偶然かと思いましたが、今思い返すと若田部さんの策略通りだったのかもしれませんね。あそこで浦谷さんへの疑いを強くしたんです。僕らを第一発見者に仕立てた目的が、僕の中での浦谷さん犯人説を強めることだとしたら、大成功だったわけです」
その理由は一週間前に華道サークルの三人と会った際に得た『ストーカーの二人目は浦谷英一郎』という情報があったために、より強い効果をもたらした。
「実はその事件のまえに栄瀬眞紀子と会いました。ひょっとするともう一人のストーカーの名前を聞き出せるかもしれないという期待があったからです。それは現実になりました。棚からぼた餅じゃないですけど、ああ、これで事件は解決したと思ったんです。まさしく思い込み。突っ走りすぎたというのがありますが、従来そこで僕をセーブしてくれる東後とか水雲さんがいなかったんで……」
虎次郎は照れて頭を掻く。そうなるならわざわざ口に出すな、と寿至のツッコミが入りそうだったので慌てて言葉をつないだ。
「自業自得というか身から出た錆というか、元刑事としては反省しなければいけない点ですし、これまで周りに助けてもらっていたことを感謝しなければいけません」
恥ずかしいついでにより顔が赤くなりそうな台詞が口から出た。反面、周囲は何も気にしていないようだったので話を続ける。
「栄瀬真紀子はなぜ浦谷さんがストーカーだと分かったのか訊くと、本人に訊いたからと言いました。僕はそこで、もしかしたら最初から華道サークルの三人と浦谷さんはつながっているのではないかと仮定してみたんです。すると、一つはまれば連鎖的に完成していくパズルのように勝手にピースがはまっていきました。ですが、それは誤りだったんです。一つの矛盾を見逃していたために起きたミスでした。常識的に考えれば分かることだったんです。仮にこの情報が正しいとすれば、京都タワー下の喫茶店で若田部さんと会った時に答えは出ていたはずなんです。ストーカーは長戸と浦谷さん。被疑者をこの二人とみれば次に調べるのはアリバイです。浦谷さんのアリバイは京都府警のあなた方が当然最も理解に近いところにいます。長戸はどうか、これも調べれば分かるでしょう。……が、どうしてか事件から一月近く経っても、彼の周辺が捜査されていました。何故? そりゃあもちろん、若田部さんの指示のもとでしょう、浦谷さんを欺くための」
「なるほどー。若田部さんにしては不自然なほどに長戸にこだわるなあと思ったんですよ。直感的にあいつ犯人じゃなかったすからね。まあ奴が殺されたのは僥倖でしたけど」
「やっぱりそういうことか……」虎次郎は小さく独りごちた。
「警察内部と浦谷さんには別の説明をされていたんですね。それで質問のお答えにはなっていませんか?」
「…………」
沈黙が肯定を意味していた。京都府警内と、浦谷に対してとで伝えていた捜査方針が異なっていたのかはこの後で聴き取りすれば明確になる。
「もっといえば、取り調べの基本である目線の動き。若田部さんの『目星がついている』発言。引っかかったのは、若田部さんの視線だったんです。サイドブレーキを見ていたと思ったんですが、サイドブレーキは視界には入ってなかったはずです。ただ、左下を見ていました。新人研修がまさかこんなところで役に立つとはっていう感じですが、それまでずっと会話中は相手の目を見ていた若田部さんが初めて目線を合わさないで語りかけた。僕はそこを違和感と捉えたんです。そして左下を見るというのは、主に独り言を呟くとき。何故いつも変化のない若田部さんがそんなミスをしたのかは不明ですが……」
「ほう、そこを見ていたとは……。ちょっと侮っていたかもしれません」そういって若田部はフフっと笑った。いつの間にやらかなり皺が増えたように思える顔だった。
「単純に嬉しかったからですよ。ここまで私の計画通りに動いてもらえるとは、想像以上だったもんで。まだまだ私も甘かったということですねえ」
あの時とまったく同じ角度を見ていた。虎次郎は思わず眉間に皺を寄せる。だが意に介さないと心がけつつ、話を続ける。
「栄瀬が浦谷さんの名前を出したとき、すごい怯えておられたんですね。最初は警察だからかなと思いましたよ。まあそう言われて即浦谷さんを疑うなんてことはなかったですよ、さすがの僕も」
「さすがっすね~。話聞いてる感じやと、僕ならすぐに僕を疑ってしまってますよ」浦谷が軽口を叩く。虎次郎は気にせず、
「今の若田部さんの視線と同角度で目を逸らしたんです。自然と寄っていたというイメージですが。左上なら分かるんですよ。過去の発言だったり、出来事だったり、いわゆる視覚的なイメージを呼び起こす時に見る方向と言われていますからね。ただ、伏し目がちだったんです。だから、本当に言ってもいいのだろうか、あるいは嘘をついていることがバレないだろうか。人はその場で考えた嘘をつくときは右上を向くと言われているのは有名で、有名すぎるあまり犯罪者の中にも訓練できている人がいるというのもありますよね? まあこの状況とは異なりますが……。何せ左を向いていたんです。だからおかしいな、と思ったんです。探偵と名乗った僕と話す時点で四十万胡桃のストーカーの話をされることは頭にあるでしょうし、逆に入ってなかったら不自然です。だから何かを思い出そうとして左側に目をやることは普通は考えにくい。となると、名前を思い出そうとしたのではなく、何か別のことを思い出そうとしたんです。それが若田部さんとの会話だったのではないかと想像するわけです」
相も変わらず静まりかえっている。まだ言葉をつなごうとしたが若田部が遮った。
「うん、ただ、どうしてでしょうか。それが浦谷が麻薬をやっていないことを論理的に導けていないように感じてしまうのは」
「ああ、話が長くなっていますね。すみません、その証明が必要だということを忘れていました。ただ、麻薬の話は浦谷さんと関係ない、という証明がしたくて、それと同義だという認識で話してました」
「ああ、それなら理解できました。どうも」
若田部はニッと白い歯をみせて笑った。
ふと虎次郎は思った。若田部は一体この場をどうしたいのだろう。
次いで幾つか疑問が浮かび上がる。
若田部恭介は今回の事件を、犯人としてではなく、刑事としてどのような終着点を目指していたのだろう。
浦谷の逮捕という形に持って行きたかったのであれば、今この場に一堂に会することにはなっていなかったはずだ。
やはり何かミスがあったのか。それとも完璧と思われた若田部にも何か……。
そこまで考えて、やはりアレは、その何かが引き起こしたことなのかと思えてきた。
そう、若田部にはある癖がある。もっとも本人が気づいていないのかもしれないが。
浦谷もそれには気づいていただろう。
憧れがあったからこそ、恐怖していたからこそ、緩手が目立って見える。その典型だろうか。
「野暮な質問申し訳ない」水雲が音を投下した。
「若田部さんは何故今回の犯罪を起こそうと思われたのですか?」
思わず、ほう、と呟いてしまった。同時に、こんなに危機的な状況で延々と一人語りをしてしまっていたことに気がつき、急に汗が噴き出す。思わず円香の方を見るが、動く気配は見受けられなかった。
ホッとしてすぐさま若田部の口元に集中する。だがなかなか開かれない。
「……む」
「ム?」
「虚無、それだけです」
それが今回の犯罪の理由だとは到底思えない。それはおそらく、この場にいる全員が同意見だろう。しかし、彼の場合、それで通用する何かがあった。
犯罪の多くで動機が本人の口から語られることは少なくない。だが、殺人となると話は別だ。理由らしい理由が並べられるケースは稀である。マスコミはこぞって報道するが、その大半が創作、あるいは誇張されていると言ってもいい。むしろマスコミが望む答えを警察側が準備することもままある。
人間だけが、人間を、すなわち同種内で命を奪うわけではない。
自然界で行われるごくありふれた搾取を、自分たちの都合に合わせて無理やり言語化しているにすぎない。安心したいだけだ。そして誰もが自分は関係ないと考えている。実際に生も死も実感することは年齢を重ねるにつれ多くなっていくのに、不謹慎だのタブーだの言われて真剣に議論することはない。
それなのに、わざわざ適当に作られた殺人犯の言葉を鵜呑みにしてしまう。
至極当たり前のことだ。それ以外の情報がないのだから。
水雲も正確な答えを期待して訊いたわけではないだろう。ただそういったことを全て理解した若田部がどういった言葉を紡ぐのかに興味が湧いたにすぎない。虎次郎もそれに同意したからこそ何も口を挟まなかった。
若田部がこの一連の犯罪に対して罪の意識、あるいは人間への尊厳などといった形而上の概念をもっていたのであれば、これらの事件は起こっていないといえる。それが彼の思考なのだ。人を殺すことを丁寧に説明できるくらいなら、このレベルの人間が殺人は犯さない。それもあって虎次郎は若田部の回答に少しの安心感を覚えた。
「いいじゃないですか、もう。事件のいきさつは後でゆっくり訊けば」
浦谷が冷笑を含みつつ発言する。
「それよりこの状況を打破するのが先でしょう」
「まーだ分かってないみたいやねえ、浦谷君は。私が犯人という証拠を出してからでしょうが。連行するにしてもちゃんとした手順を踏まへんと」
虎次郎の心臓が一つトクンと鳴った。緊張からか喉が一気にカラッとなった。刑事時代も含めて話そうとして身体がこういった反応をみせるのはかなり珍しい。大学の卒業研究発表以来かもしれないな、などと関係のないことを考える。
「八つ橋ですよ」
浦谷と若田部が会話をしている雰囲気の中で、虎次郎の声はやけに大きく響いた。一斉に自分に視線が集まることを実感する。
全員が驚いた表情をしていると思ったが、たった一人、浦谷だけは悲しそうな顔をしていた。
「若田部さん、長戸が殺されてた現場で私が、岬結良という女性の殺害について話したのを覚えてらっしゃいますか?」
岬本人の家でこの話をするのはなんだか変な気がしたが、そのまま言い切った。
「もちろんです。この場で言うのはなんやけど、殺人を自殺扱いにして捜査を打ち切ったっていう話でしょ?」
「そう、それです。そこで私、彼女の免許証を拾ったという話をしたんですね、桂川パーキングエリアで。長岡京からの帰りで拾ったという風に」
「はあ」若田部はまだ気がついていないようだ。本当にどうしてこの完璧超人がそのようなミスをしたのだろう、と今日何度目だろうか、そう思った。
「長岡京から滋賀県に帰る方向ですね、上りの桂川パーキングエリアですが、そこには生八つ橋って売ってないんですよ。若田部さんの勘違いかなと思ったんですが、そのような言い間違いをされる方ではないですし」
彼が完璧であるがゆえに目立った間違い。何一つとして、事実以外を述べない彼の発言だからこそ気がついた矛盾。
「何故岬結良の免許証が、下りのパーキングに落ちていると思われたのですか? おそらくですが、生八つ橋を食べられたというのは事実なんでしょう。もちろん下りで」
「うーん、それも微妙ですねえ。免許証が落ちてた場所を思わず私が言ってしまったってことを証拠にしたいんでしょうけど、生八つ橋食べたことがあると言っただけですし」
虎次郎は少しばかり震える手を力を入れて抑え、ジーンズの後ろポケットに手を突っ込んだ。そして長財布を取り出す。
「ここに、その免許証があります」
その瞬間、若田部の目の奥で何かが光ったような気がした。一瞬で失われたので錯覚かもしれない。
財布から透明の袋を抜き出した。中には岬結良が落とした免許証。
「私の癖ですね。常に指紋採取キットを持ち歩いてるんですよ。で、この免許証にも当然使用しまして、二つ指紋がついていました。まあ一つは本人のだったんですが、もう一つ。ちなみに経緯として岬には生前付き合っていた男性がいたことが明らかになっています。共にレンタカーを借り、遠出していたようですね。レンタルショップの店員が覚えてましたよ、一緒にいたという男性を。ただまあ……今はそれよりも指紋の件ですね。実は若田部さんのも最初にお会いした時に、コーヒーカップから採取させてもらったんですね」
そう言って次はジーンズの左ポケットからスマホを取り出す。
「ちょっとこれは内緒に……ってできない状況ですが、一応キャリアの人間はこの指紋登録認証データベースをインストールしてるんですね。私の場合、採取が趣味なので、あんまり登録はしない方なんですが、八つ橋の件があったもので、若田部さんを疑った時点で両者の指紋を登録してみました。まあこれは浦谷さん宅に向かう車中でやっていたことなんですが」
喉を湿らそうと唾を飲む込んだ。
「この警視庁が開発したソフトが教えてくれましたよ。二つの指紋は同じ人物のものだということを。つまりですね、若田部さん、あなたは生前岬結良と会っていた。それも、恋人関係、あるいはそれに近い関係だったんですよね。もっと言うと、この岬結良が殺されていたとしか思えない状況を伝えると、すぐさまそれは殺人ですね、とおっしゃった。誰が殺したかはさておき、彼女を知っておきながら、彼女の遺体が見つかった時に名乗り出なかった理由は何ですか? 説明できないはずです。ここに若田部さんの指紋が残っていながら名乗り出なかったのだから、あなた以外に犯人はいませんもんね」
「……」
「これがあなたが逮捕されなければいけない、証拠です」
いつも瞬時に返答をよこす若田部が何も言ってこない。さすがに言い返す気力もないのだろう。
「……そうですね。そうですが、いくつか不明な点あるでしょう。それにお答えしますよ」
まったく存外の言葉だった。だがすぐに立ち直る。
「若田部さんの今の心境を教えていただきたい。何故私たちにそんな説明をする気になったのか」
「自分の表現がどれほどの効果をもたらしているか確認したいだけですよ。私は私以外にはなれませんから」若田部は平然と答えた。
殺人者は大きく二つのパターンに分類できる。一つは、こそこそと殺人を繰り返したい、いわば自分のために殺人を犯しているタイプ。もう一つは、殺人をおおっぴらにしたい、すなわち自分のやっている殺人を他者に認めてもらいたい、というタイプだ。
そして若田部は、どちらにも属していない。根本にあるのは前者であるが、追いつめられた途端、後者に早変わりした。データベースで検索したことのある殺人犯プロファイルでは、一切合致する人間はいないだろうと虎次郎は予想した。
「ではよろしければ、四十万胡桃を殺害した時にどのようにして車から脱出されたのかを教えていただきたい。あのカフェでも話題に上りましたけど、結局答えは分かりませんでした。今思えば若田部さんの推理の中に答えがあったということですか? まったく同じ車が二台用意されていたとか」
「ああ、あれはちょっと奏さんを試した側面もあるんでね……。まあ、マジックのコツの部分はヒントでした」
カフェでの若田部との会話を思い出す。
マジシャンが意図的に作り出す観察者の「視線の動き」に着目すれば、マジックの種は簡単にわかってしまうというものだった。
「まあ結果を言うと、見られてなかった、ということですね。誰も私を認識していなかったんです。マジックの種を見破る方法については軽く議論を交わしましたね。そう、マジシャンはよく言います。ネタばらしをしない理由は、なんてくだらないんだと言われるのが嫌だから。今回の件もまさにそれですが、私はマジシャンではないのでお答えさせてもらいました」
「いや、ちょっと……意味が分かりません」
虎次郎は思わずこめかみを掻いた。
「ではもう少しわかりやすく……。奏さん、あの自動車をちゃんと調べられましたか?」
「まあ、私の中での一定以上は。ただ、車検まがいのことをされたと若田部さんが言っておられたのでそれを鵜呑みにしたのは事実ですね」
「鵜呑みで問題ありませんよ。何も乗っていかなかったでしょう? そう、最初からあの車には誰も乗ってなどいなかったのです」
いや、と反論しかかったところで若田部が核心をつく一言を寄こしてきた。
「あの車はですね、リモコンで操縦されたいたのです。僕がある建物の屋根の上から」
あ~と感心したように浦谷が喉を揺らした。虎次郎の頭の中が揺れていた。
「いやいや、でも確かに僕の目の前をあのピンクの軽自動車が通り過ぎる時には、運転席に人がいましたよ。あれは絶対に生きた人でした」
「しつこいですねえ、誰も乗っていなかったと言ってるじゃないですか」多少むっとしたのか、音量が上がった。
「クラクション鳴らしたり、アクセルスピードを変えたりするのは簡単ですよ。まあ少しだけ奏さんに目的は説明しましたね。誰も乗っていない証拠に、と。そもそも運転席をちゃんと見ましたか? これは観察しましたか、に置き換えても良いですが」
「見ましたよ、俺が見ました」
突然の寿至に身体の奥底が震えた。健常者でも寿至の低音を認識できない人は日本に一パーセントくらいはいるのではないかと思える程だった。
「……見間違いではないですか?」若田部の眉間に一気に皺が寄せ集められた。一瞬、呆気にとられたかのように目を見開いたのだが、すぐに戻っていた。
「確かにいました。挙動がありましたよ。確実にあれは生きた人間でした」
「いやいや、そんなはずありません。誰も乗っていないはずだ」
「でも人が座っていたという証拠というか、痕跡はあったんじゃないですか?」
「それは……ね。まっさらな車は準備しませんよ。中古の車ですからね」
「俺が見間違えるはずがない」
寿至はただ燃えるような目で若田部を睨みつけていた。円香の件もあろうが、彼にしてみれば冷静さを欠いているようにみえた。若田部は一唸りすると、唇を手で弾く動作をして始めた。久しぶりに見る彼の癖だった。
「……じゃああれは誰で……」
若田部が誰でしょうか、と言い終わらないうちに浦谷が言葉を挟んだ。子猫の鳴くような小さな声だったが、割とはっきり聞こえた。喉の汚れを知らない、若手特有の澄んだ声。
「それは僕です」周りが反応しきる前に彼はまくし立てる。
「暑かったっすからね、あの日。オフィス見渡したら若田部さんおられなかったんで、サボるために三条で遊ぼうとしていたんすよね。あ、違うな、サボるためじゃなくって、暑かったから遊ぼうとしていたというか……。とにかく私服に着替えて外回り行くフリして三条まで覆面乗って行きました。自席の引き出しに常備していますからね。……あ、話が逸れました。とりあえずタイムズに車停めて、さあどこ行こうかなって考えてる時にまさに例の車が動き出す瞬間を目撃してしまったんですよ。多分若田部さんがいたところから死角になっていたってのと、十分くらい料金入れの影のところで休みながらスマホで場所検索してたんで、気付かれなかったんでしょうね。まあ普通の人ならタイムズから出ていく車に何も感じないでしょうけど、さすがの僕は刑事ですからね、運転席に目がいってしまうんですよ~。あんまりジロジロ見ると警察やと疑われたりするからって若田部さんはじめとして先輩からはよく言われてるんすけど、全然直らへん癖で……。で、誰も運転席に乗ってへんでしょ? その休んでたとこからサッと助手席に滑り込んで……」
若田部の唇を弾く癖が一層強くなり、ぷんっという音を立てた。しかし表情はほんわかとした笑みをたたえていた。何を考えているのか全く読めない。
「でまあ、当然正義感溢れる僕ですからね、ブレーキ踏んでみたり、アクセル踏んでみたり……あ、これは今思うと危ないっすよね……。あとはサイドブレーキ引いたり、パーキングに入れようとしてみたり、ワイパー動かしてみたり、ウインカー点灯させてみたり色々しようと試みたんですが、結局何もならなかったんで、なんか急にスピード上がったなあって時にこれはやばいと思って飛び降りました」
「えーっ! それがほんまやとしてですよ」虎次郎は言葉を浦谷に引っ張られつつも、冷静な頭で考えようと細い息を吐いて、脳を落ち着ける。
「そんな……飛び降りたら誰か絶対に気がつくでしょうよ! その目撃情報はなかったんですか? というか若田部さんが気付かないはずはない。いやいや……それ以前にリモコンで操縦って……、ご本人がそうおっしゃるんで正解でしょうが、そんな技術あります? 普通乗用車ですよ? あ、一応軽か。どこかに受信機もついてなかったみたいやし……」
これまでの説明でまだ処理しきれていない箇所が思わず口を突いて出た。
若田部と浦谷という現在も一応上司と部下の関係の両者、ペアを組む刑事二人が目くばせを二度繰り返してから、虎次郎に向き直った。
「あ、すみません。お答えいただくのは浦谷さんだけで大丈夫です……。後半は独り言ですから」
「僕は何に答えたらいいんすか」と浦谷は苦笑いしつつ、
「たぶんですけど、若田部さん一つ嘘ついてるような気がしますね。建物の屋上にいたのは本当なのかって今思っちゃいました。どこにいてもスマホ一つでそれくらいできるんじゃないですかね? まあどこかの企業なり大学なりと共同開発しなきゃダメでしょうけど。そんなことより奏さん、もっと最新技術の勉強なさった方が良いんじゃないすか? まだお若いのに……それだとどんどん時代に置いていかれますよ。元々技術職だって話じゃないすか。なおさらっすよ」
そんな話、浦谷はおろか若田部にすらしていない。寿至が技術者という情報は伝えたが。
「アドバイスありがとうございます。って説明不足ですね、私が聞きたいのはそこじゃなくて……。車から飛び降りた証言です」
「まあこのことは誰にも話さへんようにって賄賂をちょこっと……」ちらっと若田部を窺い、
「というのは冗談ですよ、もちろん。ただ、サボって抜け出してきたのもありましたから公にするのはよろしくないので、ちょっと口は封じさせてもらいましたけど。もちろん、罪ではない方法で」
平然とした顔で思い切ったことを言う。
「結局病院に行ってたんで、すぐに若田部さんのところに行けなかったんすけどね。実は右手の薬指を骨折してまして……」
「うん、なかなかやな浦谷君。一応褒めてるからな」
「ありがとうございます」
虎次郎の頭の中は、幼児がごちゃ混ぜにした絵の具のように混沌としていた。事実関係を整理したいのだが、浦谷の行動が人畜無害というのか、破天荒というのか、考えすらしないことを平気でやってのけているので、理解が追いつかないという感じだった。
「じゃあその調子で事件の全容を喋ってみよか」
無表情をあえて作ったような顔で若田部が言った。
「わかりました」
これまでにない真剣な顔をしたかと思うと、まったく抑揚をつけずに彼は話し始める。事務的な口調でもあったために、これまでの彼と見間違えるほどだった。
客観的事実から裏付けられた事象と、浦谷自身の推測、それらがはっきりと分けられ、かなり分かりやすい説明だった。
若田部にしては珍しく、相槌を打ちながら話を聞いている。時折小さな声で、その通りと呟いていることから浦谷の推理は大半が正しいということだろう。虎次郎の推理とも大きな差異はなかった。警察内部でしか知られていなさそうな情報、芦田渋が殺されていた場所に、大麻が落ちていたことなどあったが、その情報がなくても結論は変わらなさそうだった。
「芦田は腹をナイフで刺されての失血死でした。若田部さんが芦田を殺害した理由は先ほど滋賀県警の方が説明されたので間違いないと思います。奏さんのような立場の人からの視線を外すことが目的だったのでしょう。話を戻します。若田部さんは芦田を殺害後、ご本人の言葉を借りるなら、どこかの建物の屋上に行く。そして、僕が駐車したタイムズから車を発進させた。……あとは奏さんがご覧になった通りだと思われます」
一瞬だったが若田部が口元に力を入れたのを虎次郎は見逃さなかった。何かを隠したがっている動作だ。
浦谷は淡々と話を続けている。もちろん滋賀県警の管轄で起きた事件には一言も触れない。長戸照貴弥が殺された事件のことを話していても、当然手原めぐみの名は出なかったということだ。
「さて、ここからは奏さんの話をうかがった上での意見になりますが……、僕は若田部さん一人が犯人だとは思っていません、少なくとも」
分かりやすく滋賀県警の刑事が反応した。
「共犯がいるというのですか?」明らかに浦谷より年上の刑事だが敬語で質問する。
その刑事の方を向いて浦谷が言葉を投げかける。
「この家の持ち主である、岬さんが殺害されるまえ、この近辺で学ラン姿の高校生らしき人物が目撃されています」
水雲がへえ、と頷く。よく調べたな、というにんまり顔だ。
「また別のところでいくと、もはや有名店になった『マイルドリンゴ』はもちろん、周辺の店にたびたび現れていた学ラン姿で探偵を名乗る男。いつの間にか全く姿を現さなくなるんですが……。この事件で初めて登場する探偵であり、若田部さんをはじめとして、……簡単に言うと皆で探そうとなったんですが、結局見つからなかったんですね。不思議だったんですよ。刑事に追われて、まして公安にも捜査を依頼したんですがね……。公安は日本の私立探偵含めてすべて把握していますから」
寿至が眉毛をピクリと動かした。そういや言ってなかったなと思ったが、知ってどうなるわけでもなかったので彼の反応は思考の奥に追いやった。
「それでも見つからなかった。何故か。既に探偵業を辞めているか、それとも……若田部さんとグルだったか」
虎次郎はずっとその高校生探偵を浦谷英一郎だと考えていた。
そしてその推理は今の今、浦谷の意見を聞くまで正しいと踏んでいた。彼が独自捜査をする際に有利になると踏んでいたと思ったのだ。
ただ、どうしても一つだけ矛盾がある。それは岬の彼氏だ。
つまり浦谷が犯人という前提であれば全て成り立っていたのだ。
もっとも岬の彼氏は若田部である。それは八つ橋の件からも明らかだった。
「当然若田部さんだということはありえない。……ああ、そういえばあれか。もう一件ありましたね。長戸の自殺した生徒。そこで名前が判明したと。……なんでしたっけ?」
確実にその話を浦谷にした記憶はない。この男の情報網はどうなっているのだろう、と恐ろしくなる。
「外川靖也ですね」虎次郎は極めて普通に答える。
「そうそう、その外川某とやらが、どこかにいるはずなのです。それもとびっきり若田部さんにそっくりな人物が」
本当だろうか?
どうしても疑問は拭い去れない。
ただ、そう考えれば成り立つ箇所も出てくる。
例えば八つ橋の件にしても、伝達ミスや言う言わないの決定が正確でなかったのならあり得る話だ。現にこれまでの若田部と今目の前にいる若田部はどこか違う気がしていた。気に留めないようにしてきたが、浦谷の意見を聞いてその想いは強くなった。
「……それは違う」
「……それは違うわ」
反射的に虎次郎は声のした方を見た。
「彼が、外川靖也っていう人なの」
円香がゆったりとした動きで若田部に人差し指を向けた。




